<ものみ>と<行為者>

その中心を覚えておきなさい

自分のふるまいを見守りなさい

自分の行為を

さまざまな自分の同化を–

するとひとつの距離が生みだされる

<ものみ>と<行為者>がふたつのものになる

あなたは自分自身が笑っているのを見ることもできる

そして、あなたは<見るもの>のままでいる

by osho

私にとっては、それはとてもシンプルだし一度だけならそれを実行するのもとても容易いのですが、一方でそれを継続することはとてつもなく難しいことなのです。

それが↑上で言っていること、つまりは行為者としての自分を<見るもの>になるということです。自分に意識を向けるという内面的な作業。

継続することがなぜこれほどまでに困難なのかを考えてみたのですが、それはおそらく自我にとっては見られることが危険だからなのでしょう。

自我の立場としては、私たちの本質を眠らせておきたいのです。つまり、意識を非覚醒状態においておきたいのです。

もしも覚醒してしまったら、その瞬間に自我は消滅してしまうことを薄々気づいているのでしょう。それはもう必死なのです。

だから思考(物語)の中にどっぷりと浸かっているように仕向けるのです。それでも<見るもの>でい続けるためにはどうすればいいのか?

それにはある種の絶望が必要なのだろうと思うのです。それは、自我のままでは決して満たされることはないという決定的な絶望です。

このことが真にふに落ちた時、ようやく自我の抵抗をそのままにしながらも、その抵抗をも含めた自我を見続けることができるのでしょうね。