一貫性よりも瞬間が大切

一般的に言って、言動に一貫性のない人というのは嫌われる傾向がありますね。急に意見が変わるような人に対しては懐疑心が出るはずです。

あの時にはああ言ったのに、今度はそのことを忘れたかのように、全く異なることを主張するなんて…、というわけです。

主義主張、信念がしっかりしている方が当然信頼できるような気がするのです。私自身もずっとそのように自分のことも他人のことも見てきました。

ところが自分が気軽に生きれるようになるに連れて、ごく自然に信念というものが希薄になっていくような感じになったのです。

人として、一つ筋を通すだとか、約束は絶対に守るとか、一見素晴らしいことのように感じるのですが、そこにそれほど価値を感じなくなったのです。

瞬間瞬間やって来ることに対して、その時々に素直に応答するというシンプルな生き方というのか。

これまでの自分を継続するということを考えなくなるのです。昨日までの自分は自分でOKであり、今日の自分はまた違う自分でもいいということです。

時間的な繋がりを考えるのは、過去の影響を受ける物語の中でのみ価値を持つということです。

マインドよりもハートを優先する生き方になればなるほど、物語よりも瞬間が大切になるということなんでしょうね。

自我にとって降参は死を意味する

大いなる教えとは降参することだ

自分のコントロールを放棄してしまうことだ

そして<全体>に自分を連れ去らしめるのだ

それが連れて行きたいところどこへでも–

流れに逆らって泳がないこと

自分を川の中に突き放すのだ

川になるのだ

そうしたら<川>はすでに<海>に向かっている

by osho

自我というのは、自分自身を自分のコントロール下に置きたいのです。簡単に言えば、自分のやりたいようにやりたいのです。

ところが幼い頃というのは、完全に親に依存しなければ生きていけないために、ある程度は親のコントロール下に入らざるを得ないのです。

その時には、惨めさを感じるわけです。自分をコントロールできることを前提としているのに、それができなければその落差によって惨めだという思いを生むからです。

一般的には自分のコントロールと親のコントロールの狭間で生きているのですが、場合によってはそのバランスが崩れてしまう場合もあります。

つまり親がコントローラーであったときには、コントロールのほとんどを親に譲らねばならないからです。

その時には、激しい惨めさがやってくるでしょうね。その惨めさから脱却しようとするのが人生の原動力になるわけです。

だから降参は自我にとっては自殺行為なのです。降参とは自分以外の誰かにコントロールを明け渡すことだからです。

降参することほど惨めなことはないと自我は考えるのですが、実は真の降参は自我の死を意味するのです。

降参すればどんな惨めさも苦悩も自我と共になくなってしまうのです。自我を救うか、惨めさや苦悩から解放されるのか、選択権はあなたにあるのですね。

二種類のチャレンジ

もし自然に逆らったら

あなたの自我は強まるだろう

それがチャレンジというものだ

人々が挑戦を好むのはそのせいだ

挑戦のない人生は退屈なものになってしまう

自我が空腹を感じるからだ

自我は食べ物を必要とする

挑戦がその食べ物を供給する

そこで人々は挑戦を求める

by osho

自分のことをチャレンジャーだとは思っていない人であれ、誰のマインドにもチャレンジャーの部分があるのです。

だから何もせずにいると、チャレンジャーは退屈して不満を感じるのです。チャレンジするものを必死で探すことになるわけです。

それを別の言葉で言えば、闘うということにもなるし、我慢する、頑張る、そして結果を出すということです。

こうしたことのすべてが自我を強化することになるのです。ここで注意しなければいけないのは、チャレンジと思われるものには二種類あるということ。

一つは、ここで書いているように自我の餌となるチャレンジであり、もう一つのものは行為として起きるもの。

本人はそれをチャレンジとは感じていないかもしれないのですが、周囲から客観視すればチャレンジの一つとして映るのです。

行為として起きるのは、自我によるチャレンジと違って、結果を求めてはいないのです。行為そのものが目的なのです。

この二つのどちらに重きを置いて生きるのか、全く異なる人生になることは間違いないですね。

マインドの「仕返しメカニズム」

昨年先輩力士から暴力を受けて大変な目に遭った貴ノ岩関が、今度は自分が暴力行為に及んで加害者側になってしまったということをニュースで知りました。

残念な事件ではあるのですが、テレビのコメンテーターが言うほど、実は私は驚いてはいないのです。

というのもマインドの習性として、されたことはし返すという傾向があるということを知っているからです。

たとえば幼い頃に、父親に暴力を受け続けたとすると、本人は暴力を激しく嫌う反面、溜め込んだ怒りが原動力となって自分が暴力を与える側になったりするのです。

小さい頃に、親から充分に受け止めてもらえなかった過去を持つと、今度は自分が親になった時に、子供に対して受け止めることのできない親になるのです。

もちろん100%ではないにせよ、あるいは必要な癒しをしない限りは、こうしたことは世代を超えて続いていく傾向が強くなるのです。

相手を受け止めるというのは、誰にでも備わったごく普通の能力なので、受け止められないのではなく、受け止めたくないというマインドの状態になるだけなのです。

マインドの仕組みの中にある、「仕返しのメカニズム」を深く理解することができれば、表面的な理屈で人を裁くことも少なくなるはずですね。

身体とマインドから離れる時

死の中で、何が起こるのだろう? 突如として、あなたの身体がなくなっていく。突如として、あなたの心(マインド)がなくなっていく。突如として、あなたは自分自身から、あなたが自分自身だと信じているすべてから離れていくのを感じる。

by osho

↑これを読んで、思わず何だかワクワクしてしまうのは私だけでしょうか?本音を言えば、この身体やこのマインドが面倒なんですよね。

だから、それらから完全に離れていくんだとなったら、早く死んでみたいと思ってしまうわけです。

もちろん人並みに、死ぬことへの恐怖や死んでいく過程の面倒臭さなどを思うとやっかいだなと思ったりもするのですが…。

ただ、自分でも自覚があるのですが、生きている間にこの身体やマインドを縦横無尽に使い倒していないということ。

きっと数パーセントくらいしか使っていない。ということは、死んで一旦は離れていくとしても、また新たな身体とマインドをまとうことになるんだろうなと。

そうなってくると、今回の人生が終わる時には、上記のように綺麗にマインドから離れていくのはまだ無理なのかなと。

つまり思いが残っていると、マインドのエネルギーが次の身体へと向かっていくことになってしまうので、残念ながら本質に戻ることは難しいように感じます。

なんてことをツラツラ感じながら、それでももうしばらくはこの身体とマインドと付き合っていくことになるのかな。

改善よりも見守ること

この瞬間において何がどうなっていようと、あなたがそれを受け容れる

そうすればそこにはほかの何を求めるどんな動きもない

それを生きるのだ、瞬間から瞬間へと

深い受容のもとに成長する

目標もなく、どこへ行くという欲望も、何か違うものになったり

誰か違う人になったりという欲望もなく

by osho

↑上の osho の言葉はたしかに極端に聞こえるかもしれませんが、内面のどこかにこのことを携えていればいいのです。

受け入れるためのコツというものがあるとしたら、それは自分を改善しようとする代わりにただ見守るということです。

悔い改めて正しい自分になろうとすれば、そこには必ず自己との戦いが始まってしまいます。

それはもう自我の思うツボ。受け容れることができないのなら、それ自体をただ見守る、あるいは愛を持って放っておくのです。

そして新たな内面の部分として、受け容れることをすればいいのです。もう一度言いますが、受け容れない自分を改善して受け容れるようにするのではないのです。

このことをしっかり理解できれば、受け容れることがそれほど難しいことではないと気づくはずです。

ただし、しばらくの間はそれまでの自分がそのままに残るのですが、やがては少しずつ小さくなって行き、いずれは取るに足りないものになっていくはずです。

問題行動はマインドの仕組みの一つ

賢者とは、生のあらゆる罪を生きた者のことだ

何ものも否定しなかった、何ものも罪とは呼ばなかった者

どんなことであれ起こったことを、ただ一心に受け容れてきた者

それが起こるのを許してきた者、波とともに動いてきた者

漂ってきた者、道を踏み誤りもした者

地獄の真っただ中にも落ちた者

by osho

私たちは誰も自分の人生が清廉潔白であることを望んでいます。誰からも後ろ指をさされずに生きていたいと思っているのです。

加害者になって罪悪感に苛まれるくらいなら、被害者でいる方がまだましだと思っているのです。

テレビのワイドショーで、女性アスリートの方が万引きを繰り返していたことを告白する記者会見の模様を観ました。

そうした自分の悪癖を隠しつつ、一流のアスリートとして社会に認められることに激しい罪悪感を感じてて辛かったと言っていました。

逮捕されてしまえば楽になれると思ってもいたと…。私に言わせれば、これは非常に単純な問題行動の一つに過ぎません。

彼女の問題行動は、摂食障害としても現れていたわけで、そうした問題行動の原動力がどこからくるのか。

それを考えようとする人が、ワイドショーのコメンテーターの中には一人もいなかったのが少し悲しいですね。

成長期に相当理不尽な思いを繰り返し体験したのだろうことが透けて見えてくるのです。

1番隠したい自分の姿を公の前にさらけ出した彼女は、まさしく地獄の真っ只中に落ちた感じがしたことでしょう。

ご本人が今後気づくべきことは、行動修正することよりも、↑上記の osho の言わんとすることを深く理解することなのだと思います。

存在は評価の対象外

改善?!

何を改善したところで

あなたはいつまでも不安と不幸から逃れられまい

なぜならば

改善しようというまさにその努力自体

あなたをあらぬ道に導いているのだから

それが<未来>に意味を持たせ

<理想>に意味を持たせる

そうして、あなたの心は欲望と化す

欲望して、あなたは道を誤る

by osho

欲望というのは、自分が満たされていないということの一つの現れです。完全に満たされた状態であれば、未来に期待することは皆無になるはずです。

自分という存在が不完全であり、それが不安を生むという間違った思い込みのおかげで、その不完全さを改善することで安心しようとするのです。

それが自己改善プログラムの始まりです。そうなると、理想となる自分の姿を追い求めることになり、未来に大きな意味を持たせることになるわけです。

それが欲望なのです。始まりが間違っているので、どんな自分になろうとも欲望がなくなることはありません。

1度金メダルを獲得したら、今度は2連勝を狙うようになるのです。どのような自分になろうとも、必ず欲望は生き延びるのです。

人生のどこかの時点で、このことに気付く必要があるのです。まさに改善しようとする努力そのものが、不完全を許容しない自分を強化してしまうのですね。

自分を見る時、表面を見ればそこには何らかの裁きがやってくるのですが、自己の存在を見ることができれば、存在は評価の対象外だと気づくはずですね。

中空の竹

内側が完全に中空になった一本の竹

休むときに

自分が一本の竹であるかのように感じてみてごらん

内側の完全に空っぽになった竹だ

これは事実そうなのだよ

あなたのからだはちょうど竹みたいなものだ

そしてその内側は中空だ

皮膚

血液

みな竹の一部だ

しかし内側には中空の空間がある

by osho

私たちの多くは、自分は身体の内側にいると漠然と感じています。身体の外側から自分の身体を客観視したことがないからです。

そのくせ、身体の中のどこに自分がいるのかを言える人もいません。そして実際どれほど詳細に身体を切り刻んだとしても、どこにも自分を見つけることはできないのです。

見つけられないのは、どこにも自分などいないからです。仮に見つけたとしても、どんな姿をしているのか想像できるでしょうか?

できるはずもありませんね。なぜなら、自分の姿は自分の身体だと思い込んでしまっているからです。

つまりこれが自分だという核となるようなどんなものも身体の内側に見出すことはできないのです。

↑上で身体の内側は中空だと言っているのは、そういうことかもしれません。自分という存在がどこかにいるはずだという根強い感覚があるだけです。

私たちの本質に対して、「それは何か?」とか「どこか?」と言った問いは的を射てないということです。

ここから先は、思考でイマジネーションを作らない方がいいです。分からないものはそのままにしておくのです。

ただし、中空の竹のようなものであるということは、忘れないようにしたいものですね。

マインド主導からハート主導に

もうひとつ別な次元のエネルギーがある

それは動機づけされざるお祝いという次元だ

その目的地は<いま>と<ここ>だ

どこかほかのある場所じゃない

実際には、あなたが目的地なのだ

実際には、この瞬間よりほかにどんな完成もない

by osho

私たちは、過去の自分、過去の出来事、過去の感情等々、つまりあらゆる過去に対してそれを認めていないと、その分だけ未来への期待が強まるのです。

過去に納得していなければ、過去に沢山の我慢を強いてしまえば、それだけ未来でその埋め合わせをしようとするのです。

簡単に言えば、過去のマイナスの分だけ未来がプラスになるようにと願うと言うことです。

こうなれば、もう人生はマインドが主導権を握ることになるのです。なぜなら、過去と未来は思考の産物だから。

思考の塊であるマインドが、活躍する舞台が出来上がるというわけです。けれども、私たちは常にこの瞬間にのみ存在しているのです。

存在できない世界に生きようとすれば、妄想の世界をさまようことになってしまいます。目的というのは必ず未来のもの。

今この瞬間というのは、まさに動機づけされざるお祝いなのです。自分が今いる場所で生きるには、マインド主導からハート主導に代わる必要があるのですね。