こんな皮肉は他にない!?

自我が存続するための仕組みというのがあるのですが、知れば知るほどそれが本当にうまくできていると思わざるを得ません。

それはもう芸術的。どの自我も自分は満たされたいと願っているのですが、その願いは明かに不可能なものなのです。

だから決して到達することのない目的地のようなもので、そこを目指している限りはその旅は続くということです。

自我とは、全体から分離した個体であるという思い込みの塊のようなもの。だから常に不安と孤独を持っているのです。

不安と孤独の中にいながら満たされるという不可能な目的地を目指すのですから、その欲望がある限りは自我は活躍し続けられるのです。

こんなことは少し深くマインドを見つめてみれば分かることなのですが、それをしないで今日も変わらずに満たされたいと願いながら生きているのです。

何度も繰り返しますが、自我として生きている限りは決して満たされることはありません。一過性の少しばかりの満足なら手に入りますが…。

その一方であなたの本質は、常に満たされている状態にあるのです。なぜなら全体性が満たされないということが不可能なことだからですね。

なのでこんな皮肉は他にはないと思うのですが、あなたのマインドから満たされたいという願いが消えたとき、あなたは真に満たされていたことに気づくのです。

目覚めと共に自我は消える

寝ている間に見る様々な夢というのは、大抵何かに従事している内容のようです。道に迷っていたり、とにかく何らかの問題を抱えていたりします。

そして朝の目覚めが少しずつやってきたときに、ああこれは夢だったので、これ以上ケアしなくていいんだという思いが起こってきます。

ただまだまだ夢の内容に未練が残っていて、それを何とかしようとしている執着のようなものがあるのが分かります。

そこから徐々に目覚めの度合いが増してくると、現実がドーンとやってくると同時に、夢のことなど全くどうでもいいやとなるのです。

こうした流れというかマインドの変化を体験するたびに、面白いなあと感じてしまうのです。

これと同じようなことが覚醒する間際で起きるのかもしれません。私たち自我は、この現実という物語の住人なのでここに執着があるのです。

たとえ辛い現実がやってきたとしても、そう簡単にはこの現実という夢を投げ出したりはしないのです。

きっとこの現実の中でしか、自分は生きられないということを知っているのでしょうね。けれども、私たちの本質は自我ではありません。

潔く、自我が現実を放棄してくれたなら、そのあとやってくるであろう本当の自分と出会うことになるのでしょうね。

禁欲と非暴力

インドの政治家であり、非暴力運動の指導者として知られているマハトマ・ガンジーという人がいましたね。

きっと多くの人にとっては、尊敬すべき人の一人として想起されるのかもしれませんが、私は個人的には苦手なのです。

勿論お会いしたことも話したこともないので、本当のところは分からないのですが、印象としてはどうも自分のマインドを理想的な方向へ持って行こうとしていたように感じるのです。

美味しいものを食べたいと思うことや、性的な欲望や、怒りのような暴力的な感情を認めたくないのでしょう。

私はこのようなある意味理想主義は防衛の一つでしかないと思えるのです。いい悪いは別として、あるがままの自分のマインドをまずは丸ごと認めることでしか、防衛を小さくしていく方法はないのです。

自分を理想方向へと強いるなら、その逆の方向へと動こうとするマインドが作られるということを知ることです。

自我の防衛が小さくなれば、性的エネルギーは愛のエネルギーへと浄化できるだろうし、怒りのエネルギーは慈悲のエネルギーへと浄化するのです。

抑圧された欲望は必ず何らかの形で報復してきますし、自分を強いること自体が自分への一種の暴力ではないかと感じますね。

瞑想を恐れる自我くん

瞑想はある人にとっては気持ちいい体験と感じるかもしれないし、またある人にとっては不安や恐怖を感じる体験となる場合もあるでしょう。

それくらい人によって感じ方が様々なのですが、その違いというのはどこからやってくるのかを考えたことがあるのです。

以前、セッションルームで瞑想会なるものを開いていたことがあったのですが、あるクライアントさんがその会にお友達を連れてきて下さったのです。

私はそのお友達の方とは面識がなかったので、でもご本人が参加してみようという気になったから来たのだろうから大丈夫だろうと安易に考えていたのです。

みんなで一斉に瞑想を始めて数分が経った時に、その方が急に立ち上がって玄関の方に出て行かれたので、トイレに行ったのだろうくらいに思っていました。

しばらくして、その人は部屋に戻ってきて、確か20分〜30分くらいで瞑想を終えたのですが、その人が言うにはトイレに行ったのではなく、帰ろうと思って部屋を出たそうなのです。

たまたま玄関の鍵を開けられなかったために、すごすごと部屋に戻ってきたらしいのです。その人にとっては、そのくらい瞑想が恐ろしいものに感じられたのです。

このまま瞑想していたら自分がどうにかなってしまいそうな気がしたらしいのです。つまり自我にとっては、ある意味命が危ないレベルの危機感を感じるのでしょう。

私はこうした自我の反応がとても興味深いのです。私自身の中にも、瞑想を怖がっているマインドの部分が確かにあるのです。

それが面白くて瞑想をしてしまうと言う面も実はあります。何にせよ、自我が強く反応することには、黙っていられないのです。

もしも仮に100時間ぶっ通しで瞑想をし続けたら、私の自我はどうなるのか考えるとちょっとワクワクしますが、実際にそんなことをするつもりは本当のところありません。だってこの私こそが自我なんだもん。

内側には静かで穏やかな悦びが在る

時々心静かにしていると、何とも言いようのない良い気持ちになることがあります。これには理由がないので、不思議な気がします。

理由なくやってきてくれているものなので、本当はずっと続いているはずなのですが、暫くするとどうも自分からそれを感じないようにしてしまうみたいです。

自我は理由のないものは嫌いなのかもしれませんが、何だか勿体無い気もします。何はなくともやってくるものが、気持ちいいものなんてラッキーです。

きっとこれは誰にでもあるものなのだと思うのですが、普段は外側からの強い刺激によってかき消されてしまっているのでしょう。

ちょうど大音量でハードロックに聴き入っているときには、小さくて可憐な鈴の音があったとしても聞こえないのと同じです。

瞑想しているときの至福感は、その鈴の音と同じようなものなのかもしれません。それはただ在ることからやってくる不思議な感覚。

意識が外に向いている間は、気づくことができないのです。すべての体験は外側で起きているものなのです。

内側にはその体験に気づいている何者かが在るだけ。その正体が至福感であり、それはとても静かで穏やかな悦びのようなものかもしれませんね。

常識と義理から遠い生活

毎日通っているスポーツクラブがあるのですが、そこで毎朝顔を合わすおじ様たちのうちの一人に、ワインをもらったのです。

たまたまサウナの中でワインの話しが出て、一しきり盛り上がったときに「美味しいので箱で購入しているワインがあるけど、いる?」って言われて。

正直なもんだから、飲んでみたいと言ったら本当に持ってきてくれたのです。陽気な方で、「うちはお金持ちなのでお返しはいらないよ」と半分真面目に言われたのです。

そこではたと気付いたのですが、口には出さないでいましたが元々お返しをするという発想が自分にはなかったのです。

ああそうかあ、こういうときには世間的には何かお返しをするものかあと気付いたのです。

私はずっと以前から、何かの貰い物をしてもお礼を言うだけで、それ以外のお返し的なことをしたことがないのです。

お返しのことを考えるくらいだったら、誰にも何も貰いたくないというのが本音なのです。相当に非社会的ですね。

子供の頃の方がよっぽど社会性があったように思います。そこそこ良い子をやっていた記憶があるので。

それを意識的にやめて行った記憶も残っています。常識とか義理とかそんなものに縛られたくないという気持ちが強かったのかもしれません。

今でも常識と義理は私の中心にはないですが、それでもこうして特に不自由なく暮らしていて、問題ないですね。

退屈の向こう側

マインドにはそれ自身の正体を見ようとすると、それを阻止するような仕組みが備わっているのです。

だから私たちは、マインドを深く見ることができないでいるのです。マインドは、その正体がバレてしまうと、とても具合が悪いことを知っているのですね。

たとえば何もせずにジッとしていると、退屈な感じがしてきます。疲れている時などは、何もしたくないのでそのままただ休養していることもできます。

けれども、充分に休息を取ってまた活力が出てくると、身体を動かしたくなったり、何かをしたくなるのです。

それをそのままに放っておくと、退屈で退屈で死にそうになるのですが、それは文字通り自我が死にそうなくらいに危機的状態になっているということなのです。

退屈というのは、そのままジッとしていると、下手をするとマインドの正体がバレてしまう危険があると察するからでしょうね。

だから退屈がやってきても、何もせずにいることができるなら、誰でもマインドの正体に近づくことができるのです。

瞑想というのは、そこに近づこうとしているわけですが、瞑想をしているという意識があるなら、それは退屈を避ける格好の手段となってしまうのです。

瞑想もせずに、真にただ無目的に何もせずにいるなら、退屈の向こう側に気づくことになるかもしれません。そのとき、マインドの真の姿を見ることになるはずです。

社会性と反社会性

こうあるべきだとか、こうすべきといったいわゆる「ベキ論」の中で生きている人は、それが正しさを利用した防衛だと気付かないのです。

正しいことは良いことだと思い込んでいるのですが、それで幸せになったり満たされることはないと知る必要があります。

それがどれほど正しいことだとしても、防衛である限りは必ずや自己犠牲が付きまとい、その結果は不自由で不満な人生がやってくるのです。

防衛というのは一瞬の安心を得るために、正直な自分を騙してみたり、あらぬ方向に強いてみたりすることで、反発を生み出すのです。

その結果、マインドの中が社会性の部分と反社会性の部分に分裂してしまうのです。その反社会性の部分がうつ症状を引き起こしたりするわけです。

防衛による一瞬の安心感を求めて大切な人生をつまらないものにしないためにも、マインドのカラクリを理解することです。

闇の深い自我こそ、こうあるべきとかこうすべきという正しさの中で過ごすのですが、闇が浅くなった自我はしたいかしたくないかをベースに生きるようになるのです。

そして最終的には、自我の消滅とともにそのどちらでもなくなるのです。そうなると、ある種の受動的な生き方になっていくかもしれませんね。

二元性の法則

私自身の体験としてすべてを実証したわけではないので、確証は持てていないのですが、どうもこの二元性の世界にはそれ特有の法則があるようです。

例えば、コインを何度も投げて表と裏の出る回数を比べてみると、投げる回数が多ければ多いほど、両者は同じ数になっていくのです。

このことは誰でも何となく知っていることですね。そうした法則が、その他の多くのことにも当てはまるということです。

何かを求めると、なにかを失うことになるのです。その求める気持ちが強ければ強いほど、失ったときのダメージも大きなものになるのです。

快楽を求めれば、不快が必ずやってくるのです。快楽を強く求めればそれだけ、強い不快がやってくるという寸法なのです。

勿論両者が交互にやってくるというわけではありません。コインを投げたときだって、連続して表が出ることだってあるし、その反対もあるのです。

求めれば失うの反対もあります。それは与えれば入ってくるという法則。与えるとその分失うと思いがちですが、実は与えると入ってきて増えるのです。

自我にとってはこの法則がどうも分かりにくいようです。もしもあなたがなにも求めなければ、失うことはなくなるのでしょうね。

改善と変容の違い

多くの人の自我が持っている欲望の中でも、特に面倒なのが自分を改善したいという欲望です。私はそれを改善病と呼んでいます。

綺麗な言葉を使うと、自分をもっと磨きたいであったり、もっと成熟したいとなったりしますが、要するにもっと素晴らしい自分になりたいというものです。

けれども、真に変容することを望んではいないのです。変容するとは、今あるあなたがある意味消えて、新しいあなたになるということだからです。

そのくらい改善と変容は異なるのです。セッションにいらっしゃるクライアントさんの本当の願いとは、今の自分のままで問題が解決すること。

今ある自分はそのままにしておいて、都合よく治したいところだけが改善されればいいと思っているのです。

ところが深く理解することができれば、それが不可能なことだと気づくはずなのです。今の問題を作っているのは今のあなただからです。

今のあなたの一部が死んで、生まれ変わることによってのみ問題が消えていくのですが、それを受け容れることができないのです。

そのくらい自我は自分を本当は変えたくないと頑に思っているのです。そのことを知っておくことは無駄なことではないですね。