悪循環を好循環へ

この社会のオキテのようなものですが、もうすでに優位に立っている人に対してより有利に働くようにできているのです。

その逆も然りで、うまく行ってない人に対しては、頑張ってもなかなか成功できないように機能してしまうのです。

好循環が好循環を生み、悪循環が悪循環を生み出すということです。じゃあ社会って不公平じゃないかと息巻いたところで、こうした傾向は無くならないのです。

同じようにして、マインドが思考に乗っ取られている人には、更なる思考が外側から押し寄せてくるのです。

そのため、いつもいつもマインドがざわついてしまい、リラックスすることがとても難しくなってしまうのです。

一方で、日頃からマインドを見つめ、それによって思考がその活動を静かにしていると、気持ちをヤキモキさせるような思考がやって来づらくなるのです。

そうなると、さらに思考が小さくなって意識的であることを思考に邪魔されにくくなっていくのです。

悪循環が好循環に変わっていくためには、たった一つの方法しかありません。それは熱心に自分を見守るということです。

思考が妨害にやってきてもめげずに続けることですね。ただしそれで社会的な成功もやってくるということではありません。

それよりももっと本質的なもの、真実が近づいてきてくれるはずですね。

無関心の勧め

私たち人間が二足歩行するということが、四足歩行と比べてどれほど緻密で大変なメカニズムを使っているのか、考えたことがあるでしょうか?

それは世界中の研究者たちが、二足歩行のロボットを開発するのに、かなりの時間を要したことを考えれば自ずと分かるというものです。

今でこそ二足歩行できるロボットが普通に開発されていますが、私がその初期のバージョンを初めて目にした時には、本当に驚いたものです。

それを開発した研究者たちほどには、私たち一般人には分からないのですが、それでもどれほどの情報を脳が操って、足をスムーズに動かしているのか。

もしもそのことを十分に深く考えながら歩こうとしたら、きっと突っかかってしまってうまく歩くことができなくなってしまうでしょう。

そのことを忘れてしまえば、いつものようにまたいとも簡単に歩くことができるようになるはずです。

考えずに無関心でいた方がかえってうまくできるということは他にもたくさんあるのです。

たとえば、子供の頃幼友達と遊んでいる時に肩を組んでみたり、互いに無邪気に笑いあったりをごく自然にやっていたのを覚えています。

あの頃は「人間関係」などという概念すらなかったのです。自分がこう言ったら相手はどう返答するのか、どう感じるのかなどほとんど考えていませんでした。

もしもそんなことを考え出したら、途端にそれまでの自然な関係性が台無しになって、遊んでいても楽しくなくなってしまうでしょう。

人間関係なんてことを考えなければ、そんなことには無関心でいられるなら、人間関係で悩む人なんていなくなってしまうはずなのです。

寝なければいけないを忘れた時に寝入ることができるし、リラックスに無関心になった時に、リラックスがやってくるのです。

良い意味での無関心を、人生のいろいろな局面で試してみることをお勧めしますね。

恥ずかしさと信頼は反比例

昨日のブログでは、愛と信頼は手を携えてやってくるというお話しをしました。本質的には両者は同じものだと思ってもいいかもしれません。

ところで、私たち誰もが持っている感覚に恥ずかしさというものがあります。一口に恥ずかしさと言っても、可愛らしい恥じらいのレベルから、恐怖と同等の恥の感覚もあるのです。

この恥ずかしさは特に敏感な人に多くみられる傾向があって、幼い子供の頃から大人顔負けの恥ずかしさを持っている場合も少なくありません。

誰に教わったわけでもないのに、恥ずかしさの中で生きている子供のときのクライアントさんをたくさん見てきました。

この恥ずかしさは信頼が増えればそれに伴って減るのです。つまり恥ずかしさと信頼は互いに反比例の関係にあるということです。

どんな子供も、無邪気さの中で生きているうちは恥ずかしさはほとんど持っていませんので、この状態では信頼がたくさんあったということです。

もちろん無意識的に生きているので、本人としては信頼に対する自覚は全くないのですが、自我が育つにつれて防衛をするようになって、それとともに恥ずかしさも芽生えていくのです。

恥ずかしさがなくならなくてもいいのですが、できればそれを感じつつも無邪気さの方に舵を切るなら、少しずつ信頼も増えてくるはずですね。

愛と信頼は一緒にやってくる

人を信用することができないと嘆いている人もいるし、自分の周りには信頼に足る人がいないのでどうしようもないと思っている人もいます。

信頼に足る人というのが客観的に存在するというのは幻想です。それは信用できる人ということです。

信用というのは、その人のこれまでの言動を総合して判断を下すと、確かに信用できる人だということになるだけです。

それは信頼とは全く異なるものです。信用は自分にとって相手が期待に応えてくれている間だけのものです。

ひとたびその人がその期待の枠から外れたことをしでかしたなら、その信用はガタ落ちになってしまうのです。

一方で、信頼というのは相手への期待がなくなった時にやってくるものです。つまり信頼は自分の中にあるもので、相手の言動には依存しないということです。

だから信用に足る人というのはいても、信頼に足る人というのはいないのです。それは文法的に間違っていることになりますね。

言葉を変えれば、信用は期待とペアだし、信頼は愛と一緒にやってきます。あなたの中で愛が育てば、相手がどうであれその人への信頼も一緒に育まれていくということです。

信用にはそれに見合った理由があり、信頼にはいかなる理由も存在しません。だから信用はぐらつくこともあり、信頼は変わらないのですね。

受容すれば癒されていく

癒しというのは、とてもシンプルに表現できると思っているのですが、それはどれだけありのままの自分を受容できるか?ということです。

幼い頃に、自分のままでは到底生きていくことができないと思い込んでしまうと、何とかして惨めではない立派な自分になろうとして躍起になるのです。

その頑張りと努力は社会の中ではある程度は成果を出すことも可能なのですが、それでも作り上げた自分のままで満足することなどできるはずがありません。

結局、どこかでそんな無理が続かなくなってしまい、そこから癒しが開始されるということも多いのかもしれませんね。

自分を受容するとは、自己否定ばかりしていたことを自己肯定へと変化させることだと勘違いしてしまうこともあるでしょう。

けれども、自己否定も自己肯定もどちらも受容とは程遠いのです。否定も肯定もなくなった時に初めて、受容が起こるのですから。

社会的にはとても認めてもらえそうにない自分のことも受容するし、受容なんてできないという自分も受容するのです。

人とは違う自分、人よりも劣っていると感じる自分、人生がうまくいっていないと思っている自分、そんな自分も丸ごとひっくるめて受容するのです。

破れかぶれで受容するのです。そんなことを続けているうちに気がついたら、肩の力が抜けてリラックスしている自分にびっくりするかもしれません。

意識が習慣から解放させる

「なくて七癖」ということわざがありますが、どんな人でも多かれ少なかれ癖を持っているものだという意味ですね。

癖というのは、習慣という言葉で置き換えることもできます。私たちの潜在意識の中には、相当数の習慣がすでに出来上がっています。

習慣というのは便利なものです。いちいち考えなくても、勝手に身体が動いてしまったりするのですから。

私自身の自覚でも、何かしらの一連の動作を習慣化してしまう傾向が強いのです。歯ブラシのプロセス、お風呂に入ってから出てくるまでのプロセス。

その他あらゆる日常的な動作を習慣化してしまっているのを知っています。これはある意味で自我の特性とも言えるのです。

習慣を使えば、意識的にならなくても自動運転のように生きていけるため、真実に気づきにくくなるので無意識が好きな自我には都合がいいのです。

そして一度出来上がった習慣を変えたり、やめてしまうことはそれなりに難しいのです。それも無意識のなせる技ですね。

でも逆に言えば、意識的になることで習慣を比較的たやすく変えていくことが可能だということになります。

元々左利きの私は、歯ブラシ後に口をすすぐ時には左手でコップを持つ習慣があって、そんなのは一生変わらないだろうと思っていたのです。

けれども、左手の薬指がバネ指という腱鞘炎になった時、仕方なく右手でコップを持つようにしたのですが、腱鞘炎が治った今でも右手を使っています。

他にも意識的であるようにしたことで変えることができた習慣はたくさんあります。どれほどしつこい習慣であろうと、意識的であれば変えていけるのです。

徹底的に意識的であろうとするなら、あらゆる習慣から解放されていくことでしょうね。あとは実践あるのみです。

「なる」ことから「在る」ことへ

私たちのマインドというのは、いつも何かになろうとして頑張っているのです。人とはこうあるべきという姿になろうとするのです。

目標を定めてそれに向かって進んでいくのです。それを達成することこそが、生きている意味だと思っているのです。

これがマインド、自我の特徴ですね。これだとどうやったって今この瞬間にくつろぐことはできなくなります。

もしもあなたが最大限のリラックスの状態になろうとするなら、リラックスはやって来ないでしょう。なぜなら求めた瞬間に緊張がやってくるからです。

本当のリラックスは、リラックスしようとすることを忘れてしまった時に、初めてやってきてくれます。

それが「在る」ということです。「なる」ことは未来であり、それは緊張を誘発するのです。一方「在る」ことは今この瞬間なのです。

社会の中で生きていこうとすれば、完全に「なる」ことをやめてしまうということはとても難しいことです。

大切なことは、日常的に「なる」ことに生きていることに気づきつつ、チャンスを見つけて「在る」ことの中にくつろいでいられる時間を作ってあげることですね。

自己否定も自己肯定も幻想

大人のあなたは、自分の独自の思いから自分のことを肯定してみたり、あるいは否定してみたりするのです。

けれども、最初の最初の自己肯定や自己否定は全て、外側からやってきたものなのです。身近にいた両親だったり兄弟だったり。

それを避けたり、それに逆らったりすることは、幼いあなたにはできないことだったのです。ただただ受け取ってしまうしかできなかったからです。

その時たまたま肯定のエネルギーをより多くもらった子供は、その後自己肯定感を育てるように人生が回っていくのです。

その逆も然りで、否定のエネルギーを多くもらってしまえば、成長する時に自己否定感を増やしていくように人生が進んでいくのです。

この仕組みから逃れることはできません。もしも今あなたに自己否定が沢山あるとしても、それを自分のせいにする必要は1ミリもないということ。

自己否定はやってきたものであり、それを送った側のマインドが病んでいたということを示しているに過ぎません。

こうしたマインドの仕組みを深く理解することがまず初めに大切なのです。それでも自己否定がしつこくまとわりつくようなら、次の作業をするのです。

それは自己否定感を持たざるを得なかった頃の幼い自分を、大人のあなたがマインドの中に見つけてあげることです。

それは幼い子供のせいではなく、不可抗力だったということ。その気づきとともに、その子を抱き寄せて徹底的に受け止めてあげるのです。

そうすることで、次第にその子が抱いてしまった自己否定感から距離を取ることができるようになるはずです。

大人の自分の自己否定感はその子のものだったと気づけば、自ずと自己否定はその力を弱めていってくれます。

自己否定が小さくなると、自然と自己肯定も小さくなっていきます。所詮は、どちらも幻想だったと気付くことになるからですね。

「一生懸命」は時に危険

「一生懸命」と言う言葉が好きな人がいますね。十二分にその気持ちは分かります。このままじゃダメだと思うからこそ、必死にそこから抜け出ようとするのです。

その時に一生懸命でなければ、抜け出ることができないと思うのでしょうね。だから一生懸命という言葉に人生をかけるのです。

けれども、何に対しても一生懸命というのはともすると危険な匂いがしてきます。たとえば、自己防衛に一生懸命になってしまったら、人生は破壊されてしまいます。

いつも言っているように、自己防衛を全力でやり続けたなら、その力の大きさに比例しただけの自己犠牲が蓄積されてしまうからです。

私自身も一生懸命を嫌っているわけではありません。要するに、一生懸命の原動力が問題だと言っているのです。

不安や恐怖から逃れて、安心したいという一心で一生懸命に自己防衛に励むなら、答えは一つ、地獄が待っているということです。

一生懸命に生きるということを拠り所にする代わりに、自己防衛を減らしていくことに人生をかける方がよほどいいのです。

なぜなら、その先には光が見えてくるからです。自分の奥深くに押し殺して隠している無邪気さを見つける道が見えるからですね。

「私は意識だ、目覚めた意識だ!」

パソコンやスマホといったものがとても身近なものになったので、「記憶データ」という言葉が普通に使われるようになりました。

私たち人間にも記憶というものがあって、見聞きしたもの、経験したもの、勉強した事柄などが全て記憶データとしてどこかに蓄えられています。

ということは、記憶データ=自分ではないと分かりますね。だとしたら、記憶データを一切使わないようにしても自分の存在はそのままにあるわけです。

瞑想などしなくても、記憶を使わずにいることはできますのでそれを試してみると、そこには慣れ親しんだ自分(自我)がいないことに気づきます。

意識はずっと途切れずにあり続けるのですが、そこには◯◯を知っている自分とか、何かが好きな自分とか、そういった日々生きている自分が消えるのです。

結局、私たちがこれが自分だと思い込んでいるものとは、そのほとんどが記憶データから成り立っているのです。

でも自分は記憶データだなどと思っている人はいないはずですね。記憶データは思考が参照するものなので、思考さえ停止してしまえば記憶を使わずに済むのです。

その時に残ったものこそが本当の自分ということになりますが、それこそがこの意識なのですね。

意識は目覚めていようが眠っていようが、どちらにせよ永続的なものです。あなたが何かを考えている時、意識はほとんど眠っているようなものです。

それが自我が活性化している通常の状態なのです。言わば私たちが自我に乗っ取られてしまっている状態と言うことです。

もしもあなたが自分の自我から離れたいと感じる時があるなら、その時には「私は意識だ、目覚めた意識だ!」と唱えればいいのです。