私たちは人を好きになると、その人となるべく一緒にいたいと思うようになりますね。近くにいてその人の存在を肌で感じていたいのです。
そしてその人とコミュニケーションをとり、様々な内面的な経験や気持ちなどを共有したくなるのです。
一心同体などという言葉があるくらいですから、その人との距離をゼロにして融合してしまいたい衝動にも駆られるのです。
この好きという気持ちからやってくるあらゆる望みを純粋な愛と呼ぶのは少しはばかれる感じがします。
というのも、純粋な愛というのは無私ということ、自我としての自分が消えている状態を指すからです。
そこをしっかりわきまえるなら、日頃愛と呼んでいるものが実は自我の愛であって、それはそのまま執着となるのです。
自分のために相手に何かを望むのは、執着だということです。ああして欲しい、こうして欲しい、自分のことだけを好きでいて欲しい等々。
勘違いしないで欲しいのですが、自我の愛が悪いということではなく、それは執着と同義だということを言いたいだけなのです。
それを理解できれば、たとえ大好きな人への不満がやってきても当然だと分かるはずなのです。
防衛が強くなればなるほど、執着の要素が大きくなり、逆に防衛が小さくなるに従って純粋な愛の要素が増えていくということですね。