死について真正面から見据える

まだ娘が幼いころに、寝かしつけてしばらくしてから、寝たはずの彼女が起きてきて、泣きながら「お婆ちゃんが死んだらどうしよう?」と言って訴えてきたことが何度かありました。

寝ようとしているときに、ふと大好きなお婆ちゃんの死というものを意識して、ものすごく怖くなってしまったのだと思います。

私の母は当時いたって健康でしたので、なぜ娘がそのようなことを急に訴えてきたのか不思議な気がしたものです。

彼女の場合は、自分の死ではなくて大好きな人の死についての恐怖だったわけですが、それでも大切な人を失うという想像は、幼い子供にとっては自分の死と同等くらいの怖さを感じたのでしょうね。

私自身も小学生のときに、何となく死ぬということについてとりとめなく独りで考えていたら、何だか真っ暗な奈落の底に落ちていくような恐怖にかられたことがありました。

そのとき、母親に向かって「死んだらどうなるの?」と恐怖を露にしながら聞いたのですが、きっと顔面蒼白になっていたように覚えています。

母親は、自分の息子が何だか思い詰めたような態度で、真剣に死について聞いてきたので、「そんなこと考えなくていいの!」という言葉で包んでくれました。

本当はそんな言葉では勿論納得などしてないはずなのですが、何か母親に大丈夫だからと受け止めてもらえたような気がして、安心したのを記憶しています。

そのときの死に対する恐怖感が自然消滅したはずはありませんので、今でも心のどこかに隠し持っているのは確実です。

しかし、いくら捜してもそれを今見つけることは無理のようです。そのくらい、自分にとって二度と体験したくない感情だったということですね。

人はそのようにして、無意識的に死の恐怖を封印してしまうのです。よほど、身近に危険が迫ってくるような環境であれば別ですが…。

死ぬということにまつわる話題ですら、あまり人はいい顔をしないものですね。本質的には、私たちの誰もが死と隣り合わせの生を生きているというのに。

生きることと、死ぬことを同じくらいに意識の中で位置づけておかなければ、それは本当に生を楽しむことのできない人生になってしまうと思います。

なぜなら、それはやはりご都合主義だからです。都合のいいことも悪いことも、それらを丸ごと同じようにして受け止めることでしか、自由を得ることはできないのです。

本当の自由は、何事からも目を背けずにいることができなければ、すぐにどこかへ行ってしまいます。エゴの自己防衛こそが、自分を束縛する根本原因だからです。

肉体を自分だと思っている個人としての自分が死ぬ前に、是非とも本質の自分への気づきと共に、「私」という想念の死を迎えたいと思っています。