真実は決して学べない

私たちの人生を通して、一貫した一つのテーマとして、何かを手に入れるということがありますね。それは、必要なものだったり、欲しいものだったり…。

その中には、物質的なもののほかに、情報として学習していくことも含まれています。知らないことを知ろうとする人間の知識欲というのはすさまじいものがあります。

誰もがかつては、毎日学校で、来る日も来る日も授業を受け続けたことを思い出すと、何であそこまで詰め込むのかと言いたくなるほどです。

成人する前後まで学業を通して学習し、また家庭や学校の生活での経験から様々なことを学習して大人になっていくわけです。

知るということについては、ただ知識を身につけるというだけではなくて、物事を理解していくということにも重点が置かれるのです。

そうやって学習することは一生続いていくのですが、そのことは人間に与えられたすばらしい能力であることは間違いありません。

しかし、そうした日常があまりにも当たり前になってしまうことで、私たちはどんなことでも時間と労力と熱意によって学んでいくことができると思い込むようになるのです。

残念ながら、本当に大切なこと、それはつまり真実のことですが、それだけは決して学習することができないものなのです。

なぜなら、学習して身に着けるということは、それが対象として存在するということが前提なわけですが、真実とは決して何かの対象ではないからです。

私たちは衣服や肉体をまとうことはできますが、私たち自身をまとうことは決してできませんね。つまりは、真実とは私たちの真の姿であると言ってもいいのです。

真実とはこうだと教えてくれている文献、経典や聖典などは沢山あるのですが、そういうものを何百年学習しても真実を知ることはできません。

真実は決して学ぶことができないということを認めるには、もしかしたら勇気がいるかもしれません。なぜなら、私たちは自分たちの理解力で何とかしたいと思っているからです。

私たちは勇気を持って、知らないことを知ろうとする長年親しんだやり方を一時的に放棄する必要があるのです。

本当に大切なことは、手に入れることができないと同時に、身に着けることもできません。いつも最も身近にある本当の自分を取得することは不可能だからです。

そして、知らないという地点にただ何もせずにいることです。その時にこそ、きっと知らないのではなくて気づいていないだけだったと知ることになるはずです。