何ものにも邪魔されない本当の自分

瞑想中に周りの騒音に邪魔されたなあと感じることがあります。そして一度それを感じてしまうと、その思考に巻き込まれていってしまいますね。

邪魔をされたという考えが、自分を被害者の位置にしっかりと据えるために、そこが居心地がいいとばかりになかなかその立ち位置から降りたがらない自分がいます。

そうなってしまうと、そうした自分を観照することを忘れさせられてしまうのです。したがって、その場合には再度やり直しを自分の中でします。

けれども、同じような騒音があったとしても、まったく邪魔されないときもあります。そのときには、騒音が自分の外側にあるという感覚ではなくなっていると気づきました。

自己のスペースの中で、あらゆることが自動的に起きている、すべての騒音もスペースの内側で起きているという感覚であると、まったく邪魔されることがないのです。

この両者の反応の違いには本当に驚かされます。一旦、自分が静寂だという感覚になると、あらゆる音がその静寂さから起きて来て、そしてその静寂の中へと消えていくだけなのです。

したがって、静寂である自己が邪魔されるということは、ありえないことなわけですね。これがいつでも体感できるといいのですが、そうはなかなかいかないようです。

心を静かにしているときには、うまく行くときと行かないときのこの差がとても明確に感じられるのですが、普段の生活の場ではなかなかそうはいかないようです。

しかし、どんなときでもこれができるようになったら、自分は傷つかないということがもっとはっきり分かるようになるはずです。

人物としての自分が傷つけられても、痛みや苦しみを感じたとしても、それを観照している自己は決して被害者にはならないのですから。

不思議なことに痛みは感じるのですが、傷つかないということだけははっきりと言えるのです。観照している意識への注意が継続すればするほど、傷ついてもいいという感覚が人としての自分にも伝染していくのではないかと思うのです。