思考は意識ではない

誰しも物心ついた頃には、もうすでに自分は身体だと信じてしまっていたわけですから、この洗脳を払拭するのは大変だとの思い込みを持っています。

しかし、何かしらの目覚め体験をすると、一瞬にして自分と身体はまったく関係なかったと気づくものなのでしょうね。私はそういう体験をしたことがないので、分かりませんが…。

ところで、自分は身体ではないということが明確になったら、自分とは一体何なのだろうかと探求すれば、それはすぐに意識であるに違いないと分かります。

意識と身体では、まったくもって通ずるところがないですね。それなのに、その二つの認識が同時に私の心の中にあるということが今もって不思議でなりません。

ただし、この自分とは意識だという認識ですが、よ~く見つめてみると、どうも思考と混同しているようなところがあるかもしれないと気づきます。

ここは明確にしておかなければならないと思うのですが、意識と思考は全く異なるものですね。思考や感情と自分を同一視している人は、この辺りをざっくりと見ているふしがあります。

思考も感情も、意識の上にでっち上げられたものに過ぎません。ちょっと細かく言えば、思考は往々にして感情を発生させます。

思考について追い詰めていくと、思考の主な役目は自己防衛だということが分かります。したがって、その自己防衛の成功不成功に応じた感情が生まれることになるのです。

私たちは身体ではないばかりか、思考でも感情でもありません。意識の上に思考や感情が渦巻いている経験が豊富なために、思考や感情と意識を混同してしまうだけなのです。

思考も感情も伴わない状態でも当然意識はあります。その意識に注意を向けていると、それこそが全体性をもった私たちの本質であるということを感じることができます。

しかし、意識とは本当に謎ですね。この世界のことで、最も理解できないものの一つが意識であり、それこそが真の私たちの姿だというのも皮肉なものです。