人生に意味を見出そうとするのは馬鹿げている その2

昨日のブログでは、「人生に意味を見出そうとするのは馬鹿げている」ということについて書きました。自分で書いておいて自分で言うのもなんですが、えらそうに!と突っ込みを入れたくなります。

というのも、もしも人生には何も意味などないということを本当に受け入れるとしたら、エゴはどうしたらいいのか途方にくれるはずだからです。

意味のない人生の中で、自分にだけは意味があるなどと思うことはほとんど不可能なことです。それがエゴには困るわけです。

エゴは、どのような方法を使ってでも、自分の価値、あるいは存在する意味を見出して、それをできる限り高めようと常に狙っているからです。

したがって、それには価値ある自分が生きる人生にも、価値を見出せなければならないのです。だからこそ、人生の意味を見出す必要があるのです。

生まれてきた目的や、この人生で与えられたはずの大切な役割などが欲しくて仕方ないのは、そういう事情があるということです。

実際、多くの人の心の奥に巣食っている苦悩の種とは、自分の存在価値を感じることができないというものです。

けれども、そうした苦しみの理由とは、価値ある自分でいたいという強烈な願望があるためです。いてもいなくてもいいというのが、エゴにとっては最も辛いことなのですから。

なぜそれほどまでに、自分の価値や存在の意味付けをしたがるのかと言えば、それは自分という存在の曖昧さを隠し持っているからに違いありません。

つまり、自分とは本当にいるんだろうかという疑念を何とか払拭したいという思いが根底にあるということです。

それは、結局自分などいないということを証明しているように感じます。どうやってももう隠し通せるものではないのでしょう。

自分はいないんだということにとことん絶望することで、本当の自分の姿に気づくときがやってきてくれるのではないかと思うのです。