真実の周りはいつも矛盾に満ちているように感じます。言葉で表現すれば、大抵は逆説的な言い回しになったりするものです。
例えば、瞑想中に何となく自分が何者でもないという感覚になったときに、ああ、この感覚をもっと知りたいと思った途端に、ニセモノの何かを与えられてしまった感じがしたことがあります。
つまり、思考によってでっち上げられた「何者でもない感」というのを味わうようにさせられてしまったのではないかということです。
自己探求と言っておきながらも、実際には探求しようという意欲に任せていると、それが思考を生んでかえって邪魔をしてしまうのです。
結局、究極の自己探求とは何も探さないということでしかないのです。何も探そうとしないし、何も遠ざけようともしないということです。
なぜなら、私たちが欲しいものを常に求めてきた結果が、この世界の現在の姿なわけですから、どうみたってうまく行ってるとは思えません。
理性は矛盾することや、理解不能なことを極力嫌う性質を持っています。理性の力ですべてを把握できると信じていたいからです。
けれども、真実に近づくにつれて、あらゆるものに矛盾の匂いが漂ってくるのを感じます。それは、もしかすると理性がそれ以上近寄らせないようにするための作戦なのかもしれません。
探そうとすればするほど、探そうとしているものを見失うという決定的な矛盾に、私たちは本当に気づかなければならないのでしょう。
私たちが探そうとしている方向には決して真実はなく、また遠ざけようとしているもののど真ん中にこそ、真実は隠されているのですから。