本質の自己である全体性に意識が向いているとき、一人ひとりの人生がそれぞれに違った単なる物語である、ということがよく分かります。
物語を見る目はとても優しいのです。それは、無防備な目でその物語を見つめているからです。けれども、物語であると同時に何もないということでもあります。
何もないとは言わないまでも、ただ現象が起きているというだけです。そこには、物語はおろか何の原因も結果もありません。理解を越えたところで、ただ起きているのです。
無から現象がやってきて、その現象が距離ゼロの地点で起きているのです。無からやってきた神は、きっとそうしたことを驚愕しながら見ていることでしょうね!
一方、個人としての自分は、自分の人生を物語として見ることも勿論できますが、リアルタイムでその時々に物語としてとらえることはなかなか難しいかもしれません。
誰かにクルマをぶつけられて逃げられたときに、咄嗟にそれを物語として見るのは至難の業ですね。その時には、人生の中にどっぷりと浸かってしまうのです。
それが問題なのではなく、そこから物語だという視点に戻れなくなってしまうことが、唯一苦しみを継続させてしまう原因であるといえるのです。
自分の人生も、相手の人生も、同じように愛しい物語であるとして見ることができるとき、人はより無防備になって愛を与え合うことができるようになるのでしょう。
物語の内容がどんなものであれ、それはまったく問題ではありません。それがすばらしいラブストーリーであろうと、悲惨な戦争物語であろうと、世界滅亡のSFであろうとも、構いません。
あなたは、ご自身の人生という物語をやさしく抱きしめてあげることができますか?それは、誰かを愛しさを込めて抱きしめることと何の違いもないのです。