究極の一人称という真理

私たちが普段頼りにしている知覚によっては、一人称を認識することができません。知覚の能力とは、分離の世界において自己とは分離した他(対象物)を認識するためだけに、使われるからです。

つまり、知覚によって真理を認識したり、それに気づいたりすることは不可能なことなのです。肉体の目を使って、何も無さを見ることはできません。

肉体の耳を使って、静寂そのものを聞くこともできないのはご存じのとおりです。残念ながら、私たちのイメージ能力も知覚がベースとなっているため、真理をイメージすることもできないということになります。

知覚もイメージ能力も使えないところ、それがつまり一人称なのです。それこそが、真理へと繋がる唯一の道だと言ってもいいかもしれません。

真理への道、それは一人称である自己を見ようとすることです。見る方向を日常とは真逆にして、自分の方向へとどこまでも見続けるのです。

そこにこそ、知覚を越えた何もなさが広がっています。それに気づくことができるでしょうか?もしも気づけないとしても構いません。それは能力の問題ではなくて、人間のあなたが気づきの邪魔をしているだけです。

逆にもしも、あなたがそれに気づいたとしても、奢ることはできません。なぜなら、その広大な何も無さに気づているのは、人物としてのあなたではないからです。

私たちは、たとえ自分がつまらない一人の人間だとしても、修行を積めば真理に気づけると思っています。けれども、真理に気づくのは決して私たち人間ではなく、真理そのものなのです。

私たちにできることは、所詮自分を少しでも向上させようとすることか、あるいはそれこそが真理から遠ざかる最大の要因だと気づくことくらいなのです。

私の身体が朽ち果てて、みなさんの知覚によって私が死んだことになったとしても、私という究極の一人称においては、今あるがままの真理が永遠に続くだけなのです。