潔い亡くなり方

2~3週間前のことですが、いつもスポーツクラブで朝お見かけするお爺さんが亡くなったのです。そのつい2日前にも、何気ない会話をしたばっかりだったのに。

朝一の常連の方々は、みなさんそれなりにびっくりしたのは勿論ですが、それでもどこかさっぱりしているというのか、とりたてて悲しむということもないのです。

私自身も、その人がサウナを利用されない方だったので、それほどお話しすることもなかったのですが、ほぼ毎日お顔を拝見していたので、ああもうお会いできないのだなという気持ちにはなりました。

大動脈瘤破裂だということを聞いて、あっという間に亡くなったのだと分かって、かえって潔い亡くなり方だなとも感じたのです。

ご本人は、以前にも一度同じ病気をされたことがあったそうで、検査のときに大きな病院で精密検査を受けるように再三言われていたのを、面倒だといって放っておいたとも聞いています。

実際、やはり朝毎日のようにお会いする老齢の紳士が、「大往生だあ!」と何度も繰り返していたのが印象的です。私も同じ気持ちでしたので。

勿論、ご家族の方々の気持ちと単なる顔見知りの私たちの感覚には、当然のことながら違いがあるのでしょうけれども、それでも何か本当に潔い感じがするのです。

私も死ぬときには、そのような死に方がいいなと密かに思っています。死んでいなくなって、悲しいと思われるよりも、周りの人たちの心が清々しい方がいいと思うのです。

プールの受付のやさしそうな女性に、「○○さん亡くなったの知ってる?」と伝えたら、びっくりして涙ぐんでいたようですが、それでも次の日からは何も変わらないいつものプールの風景が戻っていました。

そんなのがいいですね。自分が死んだ後も、誰かの心の中に強く記憶として残っているとかいうの、あまり好ましいとは思いません。

どちらといえば、完全に存在を忘れ去れたほうがいいようにさえ思います。いなくなったものは、いないのですからそれが一番いいのです。

この自分が完全に消滅したときには、間違いなく真実の自己の姿が現れるはずです。それもまた、楽しみでもありますね。