認識が事実をでっち上げる

目の前に一冊の本があると仮定します。その本は、あなたのお気に入りの本の中の一つです。ハードカバーで、持った感じはそこそこの重量感があるかもしれません。

表面は光沢があって、清潔感溢れる色合いです。大好きな本なので何度も読んだせいか、新品というほどにはきれいな状態ではないものの、どの角度から見ても魅力的な体裁なのです。

本には、それぞれに独特の香りというものがありますね。それはきっと紙質からやってくるものもあるでしょうし、印刷の匂いもあるのでしょう。大好きな本なら、その香りはあなたにとってきっと香しいもののはずです。

その本の中には、あなたを心の底から感動させるすばらしい物語が閉じ込められていて、ひとたびあなたがページをめくれば、あの感動が蘇ってくることをあなたは知っています。

その本に対してあなたがこのような印象を持っていたとしても、それが事実あるいは真実ではないことは明白です。なぜなら、上記したことのすべてが、あなたという存在から発せられたものだからです。

たとえ他のたくさんの人たちも、あなたと同じような印象をその本に持っていたとしても、それは人数が増えただけであって、それを事実と呼ぶことはできないのです。

目を閉じただけで、本の体裁や光沢などあらゆる外観は消滅してしまいます。触れることがなければ、本の質感すらなくなってしまうはずです。

勿論、その本の中にはどんな物語もあるはずもありません。ただ印刷された文字とおぼしきものが詰まっているだけです。そして、最終的にはそこに本があるということさえ不明であり、事実でも真実でもないのです。

このようにして、私たちは何かを認識することができるとしても、その何かを直接知ることはできません。つまりは、あなたは本当は何も知らないし、事実というものがあるということさえ事実ではないのです。

つまり、あなたが知っているこの世界というのは、あなたの認識によって作られたものに過ぎないということです。あなたが、この世界を美しいと感じようが、醜いと思おうが自由ですが、それはあなたの心そのものだということです。

そして、私たちの本当の姿はこの世界の中にあるのではなく、認識を遥かに超えたところにこそ在るのです。