惨めだという思いから逃げない

自分の性格を客観視してみて分かるのは、結構な短気者だということです。簡単に言えば、怒りっぽいということですね。すぐに怒るけど、その代りに怒りを溜めないという利点もあります。

クルマを運転しているときなどは、年がら年中イラッときています。前のクルマがノロノロしていたり、マナーの悪いドライバーに出くわしたり、自転車の右側通行を発見したとき、自分は絶対にひかれないと信じている歩行者を見たとき等々。

そういう自分が嫌いでもないので、怒らないようにしようという抑圧的な気持ちもあまりありません。どちらかというと、クルマの中で一人、怒りながらそんな自分を楽しんでいるのです。

このような小さな怒りはともかく、たまには大きな怒りがやってくることもあります。これまでの人生のあらゆる場面で、どんな時に自分は怒るのかということを見てみると、一つの共通点があるのです。

それは、その時の自分のことを惨めだと思っているということです。ただし、この惨めさの感覚というのは、実は怒ってしまうとほとんど気づけなくなってしまいます。

なぜなら、そもそもが惨めな自分という思いを払拭するための怒りだったからです。怒ることで、惨めな自分から脱却しようとしているということです。

怒りとはそのような使い道があったということですね。誰かに否定的なことを言われたとき、怒りのすぐ下にはそんなことを言われた自分は惨めだという思いがあるのです。

固く結んだ結び目を解こうとして、必至になっても結局できなかったとき、針に糸を通そうとして何度やってもダメだったとき、クソっと思うことありませんか?

あれは、本当に小さな怒りですが、その怒りのすぐ下には、一生懸命やったのにそれが報われずにいる自分を惨めだと感じているということです。

そしてその時に、怒る代わりに、惨めな自分をやさしく抱きしめてあげることをすると、怒りは抑圧されることなく消失してしまうのです。なぜなら、怒りを使う目的がなくなってしまったからです。

惨めだという思いから一歩も逃げないこと、目を背けることなくその中に入っていくのです。惨めだという思いを受容すると、惨めさが自分を傷つけることはないと気づきます。

自分を傷つけた上に、怒りが発生する本当の理由は、惨めだという思いを認めないことにあったのです。自分を惨めだと思っている張本人、それはインナーチャイルドなのです。

だから、自分は惨めで情けないという、その子の思いを常に受け止めてあげることができると、怒りも心の傷も小さくなってしまうということです。ぜひ、試してみて下さい。

真実はやってきてくれる

日々、たくさんのクライアントさんと接していて、心の闇があまりにも大きすぎて、簡単には太刀打ちできそうもないと感じることが多々あります。

いくら理屈を展開しても、1mmの役にも立たないなという思い、クライアントさんの心の中に、何か巨大なブラックホールのようなものでもあるのかと…。

そんなものがあるのなら、とてもじゃないけれどそこへは近づくことすらできないと思うこともあります。勿論、お手上げ状態になるわけです。

けれども、そんなことは私ごときの単なる独りよがりに過ぎないということを発見させてもらえることもあるのです。それは、私にとっては一種の奇跡のような感じさえするのです。

え、どうして?なぜそんなに急に多くのことを理解して、深い気づきを得ることができるのだろうか?今までできなかったことが、それほど短期間に癒されるのか?

でも本当は奇跡でも何でもなくて、起きるべきことがちょうどそのタイミングで起きているだけなのですね。源泉からやってきた現象が、その都度起きているのです。

真に大切なことは、向うからやってくるということです。私自身も含めて、私たちに何かの力があるわけではなくて、それはやってきてくれるのです。

やってきてくれる、それは素晴らしいことです。完璧なことです。この世界の何かに力があると思い込めば、必ずや苦しみが襲ってくるのです。

真実はこの世界の中にあるのではなく、この世界を紡ぎつつある源泉にあるのです。それへの信頼を決して忘れないことですね。

それは、誰のもとにもやってきてくれる、必ずやってきてくれます。そのタイミングがそれぞれに違うだけなのです。もうすでに、やってきてくれた人のところにもまたやってきてくれます。

一度見た真実に深さはありません。それは、完璧にしか見ることができないのですから。

損得は思考の中にしかない

株に投資している人は沢山いますね。私も、会社員のときには、持ち株制度というのがあって、地道に会社の株を買っていたことがありました。

それは、投資という感覚よりもある種の貯金のような感じでした。毎月、細々と給料から一定の額を天引きされるという方式でしたから。

株式というのは、当然のことながら誰かが儲ければ、その分だけ誰かが損をすることは分かっています。それでも、自分だけは何とかうまく儲けられたらという気持ちで、株式投資をするわけです。

一般のギャンブルだって、誰かが儲けて誰かが損をして、それでつじつまが合うのです。それは、単純な足し算引き算の世界ですね。

誰かに貸したお金を返してもらえなければ、自分は損をし、相手はその分得をし、プラスマイナスはゼロになることは明白です。

これは宇宙の法則と言ってもいいかもしれません。けれども、実はこの宇宙の実態というものは本当は曖昧なもので、そこに法則を作り出しているのは思考なのです。

つまり、あなたの思考がこの世界、そしてこの世界の足し算引き算の法則も作り出しているのです。残念ながら、私たちは自分という個人も実態があると確信していますが、それも同じように思考の産物に過ぎません。

こうして、あまりにも思考の世界にどっぷり浸かってしまっているために、それが真実だとしか感じられなくなってしまっているのです。だとしたら、思考を越えた真実はどうなのでしょうか?

まさかと思われるかもしれませんが、誰かがを得すればその分だけ誰かが損をするなどという法則は、真実にはありません。足し算引き算の法則は真実には通用しないのです。

真実は、あなたが誰かに与えた分だけ、それはあなたにも、そして相手にも同時に増えるのです。真実においては、あなたは決して損をするということがありません。

私たちの本質においては、奪われるということが不可能だからです。そのことに信頼をおくことができるなら、私たちの誰もが一瞬にして愛の人になってしまうでしょうね。

死後の世界はある?

先日、テレビで「死後の世界」についての番組をやっていて、なかなか興味深く見ることができました。ある有名な脳神経外科?の医師の体験に基づいて、それを検証するという番組でした。

彼は、仕事上多くの臨死体験をした患者からの報告を受けていたものの、一切そうした内容を本当の体験とはせずに脳による幻想と判断していたらしいのです。

けれども、彼自身がリアルな体験をしてしまってからは、自分が昏睡状態にあったときの脳の状態を詳細に調べた結果、どう考えても死後の世界の存在を認めるしかないという立場になったようなのです。

脳死の状態で出会った見ず知らずの女性が、のちに一度も会ったことのないすでに死んでいた妹だったということが判明したり、奇跡的に意識が戻る何時間も前にお見舞いに来てくれていた病室の中の人々を見ていたり、あり得ないような経験をたくさんしたのです。

大脳皮質が完全に機能停止した状態でも、知覚があったり記憶が機能していたりということがあって、これまでの科学では説明できないことがあることは、どうも間違いなさそうです。

私は死後の世界があってもなくても一向に構わないのですが、仮にあったとしてもそれを特別視するよりもこの世界と同列に扱えるような気がしています。

というのも、どんな摩訶不思議な世界があろうとも、そこに個別性がある限りは真実とは思えないからです。そこに何等かの現象が起きている限り、それは真実ではないのです。

真実とはいかなる世界でもありませんし、世界を現象化させる源泉としてただ在るものです。それこそが全体性であって、現象化した世界には必ず個別性があると思えるのです。

でも、死後の世界を想像すると、なんだか楽しそうな気がしてしまいます。きれいなお姉さんがにこにこ微笑んでくれていたり、おいしいご馳走を沢山食べられたりと…。

ただし、千年も天国にいて自由気ままな生活をしていたら、きっと飽きちゃうでしょうね。そうしたら、またこの面倒くさい世界に戻ってきたくなったりもするのかもしれません。

どんな世界でそのような体験をしていようと、自分が個として存在しているなら、そこには全体性という真実への気づきがやってくるはずですね。

ただ在るということへの感謝

昔からよく言われることに、病気になって初めて分かる健康のありがたさ、というのがありますね。何にせよ、ごく普通になってしまっていることは、それを無くしたときに初めてその大切さに気づくということです。

勿論、賢明な方であれば、奪われることなしに大事なものへの感謝を忘れずにいられるのでしょうけれど、私のような凡人にはなかなか難しいことなのです。

だから、お腹の具合が悪くなってお酒も飲めなくなったときに、初めて健康でいて食べ物が美味しいということの幸せに気づいたりしているのです。

大好きな食べ物をお腹いっぱい満足するまで食べられたらいいのに、食べ過ぎは健康に悪い。あるいは高額でなかなか食べられないようなものを毎日食べたいけど、経済的に無理。

こう思っている自分は、惨めだなあと思ったりするかもしれませんが、本当は不健康になると何かを食べたいという欲望すら消え失せてしまうのですから、食べたいという気持ちがあることだけでも感謝なのです。

大切なクルマに傷をつけてしまった直後は、無傷でピカピカなクルマをさっきまで何気なく運転していた自分を羨ましく思えたりもするのです。

このように、凡人とはなかなかどうして愚かなものですね。都合の悪いことや困ったことが起きて、初めて感謝の念を感じることができるのですから。

どうせなら、いついかなるときでも、何はなくても感謝していられるようになりたいものです。それには、一つだけ方法があります。それは、自分の純粋な意識に意識を向けることです。

そうすると、まったく何の理由もないはずなのに、ただただ表現できない安堵や感謝のようなものに包まれることになるのです。

それは決して感動や興奮のようなものではないのですが、冷静で静寂でありながら何とも奥深い完璧な悦びと一つになることへの感謝がやってきます。

私たちの本質は、何かを奪われることも失うこともありません。ただ在るということ以上の感謝はないのですね。

絶対的な真理に身をゆだねる

この世界には絶対的な正しさなどというものはないと、誰もが理解していると思うのですが、私は子供のころからそのことを楯にとって、物知り顔の大人たちに反抗的に生きてきました。

こうあるべきという正しさを説く誰のことも信用することはありませんでした。そして、今思えば安易にという以外ないないのですが、絶対的な真実などというものもないのだと決めつけていたのです。

「絶対」という言葉の響きがもう嫌いになっていて、この世の中はすべて「相対」的にできていて、それこそが「絶対」的な事実だと矛盾しながらも信じてきました。

何か、「絶対」的なものには恐れを伴う感覚が自分の中にはあるな、ということも何となくわかっていました。だからだと思うのですが、真理とは絶対的なものだと分かったとき、自分の理性が腑に落ちないと言っているのに気づいていたのです。

理性のどこかで文句を言っていたのです。絶対的なものって、何か傲慢でえらそうで、他を寄せ付けないようなところがあると感じていたからでしょうね。

けれども、それは単に恐れに突き動かされて自分を守ろうとすることからやってくるものだと気づいたのです。絶対的な真理に徹底的に自分を委ねるとき、本当の安堵がそこにはあるのです。

初めから何も疑わないよりは、すべてを疑ってかかるほうがいいのです。なぜなら、自我とは本来そういうものだからです。疑う心を正直に表面化することは大切なことなのです。

そうして、すべてを疑ったその後で、真の信頼がやってきてくれるのです。自分を守ろうとせずに、無防備に絶対的な真理を信頼することができるなら、無限の平安に包まれることになります。

もちろん、その無限の平安こそが、あなたの本質そのものなのです。

スケールの違いに着目する

俳優の竹中直人さんの昔懐かしい芸に、「笑いながら怒る」というのがありましたが、ご存じの方もいらっしゃるはずです。顔はニコニコ微笑んでいるのに、言葉では強い口調でふざけんなよ~的なことを言う、あれです。

大好きな芸なのですが、こうしたことは自然界ではきっとありえないことですね。このような真逆のことが同時に起こることは一般的には不可能なことです。

右折すると同時に左折するとか、登りながら降りる、あるいは三角形を描きながら円を描くなど…。ところが、この矛盾はスケールを変えることで簡単に実現できます。

例えば、小さな三角形を描きながら、しかもそれらを大きな円の弧になるように描いていけばいいわけです。つまり、三角形と円のスケールが違うことで、矛盾しなくなるわけです。

バスが右折するときに、そのバスに乗っている子供がおもちゃのミニカーを膝の上で左折させることは何の問題もなくできますね。スケールが違うからです。

それと同じことが私の中で起きています。勿論、あなたの中でも同じです。自分がただ在るという純粋な意識は、大きさという概念を超越した無限大であるのに、同時にちっぽけな個人でもあるということです。

個人として人生を生きていると同時に、ある意味神でもあるということ。これほどの矛盾はないはずなのですが、人がどう言おうが、私の中では全く問題なくその二つが同居しているのです。

そのことを言葉で説明するのに一体どうすればいいんだろうと考えていたのですが、気づいたのです。スケールが違うということなのですね。

意識は全体性なので、スケールの違いを越えてしまっていますが、その辺は大目に見て下さい。あなたが、自分の意識にただ注意を向けるとき、あなたに大きさはありません。

けれども、自分を肉体と同一視すれば、たちまちあなたは一人の人物へと縮小するでしょう。この二つを同時に生きるのです。どこにも矛盾はありませんよ。

自分に気づきのチャンスを与えてあげる

13年前に会社を辞めて、独り宙ぶらりんの状態になったときに、催眠療法のクラスに飛び込んで仲間ができたことはラッキーでした。孤独を回避できたからです。

同じような心の癒しを目指す仲間なので、目標を共有することで安心することができたのですね。その反動もあってか、クラスを卒業した後に淋しさがやってきました。

それは、クラスの仲間も同じように感じていたのでしょうね。よく連絡を取り合って、何かと理由をつけてはみんなで会って話しをしたりしていたことを覚えています。

どことなく、学生っぽいノリもあったかもしれません。癒しを題材にした話題で、お酒でも入れば互いにテンションが上がって、それは盛り上がるわけです。

けれども、いつしかそういうことも減ってきてしまいました。自分だけがそうなったのか、他のみんなも同じなのかは定かではありませんが、とにかくめっきり互いに連絡を取ることがなくなりました。

そのときに気づいたのですが、気の合う仲間とあって話し合ったり、お酒を飲んで楽しい時間を過ごすことには何の問題もないのですが、それはやはり単なる気晴らしに過ぎないと…。

気晴らしはたまには悪くはないのですが、やはり誠実に自分と向き合うことから逃げている時間でもあるのです。いつしか、そういう時間は自分にとって不要になっていったのです。

今でも、みんなでワイワイ盛り上がる時間は大好きですが、年に一回もあれば十分な気がします。安全で安心できる時間は悪くないのですが、そればかりでは気づくことができません。

安心できない場面に自分を引きづり出すということも必要なのですね。そうして、自分にさまざまなチャンスを与えてあげることです。ときには、苦い経験から多くのことを気づかせてもらえるのですから。

外界はあなたの心を映し出す映像

「街が色づく」という表現がありますね。今の季節にぴったりの言葉です。今年の紅葉はいつもよりも、ひときわ綺麗な気がするのは私だけでしょうか。

クルマでの朝の通勤時、あるいは駐車場から事務所までの徒歩の時間、毎日の見慣れた風景が本当に「色づいている」のが、嬉しいのです。

色彩というものが、私たちの感性にどれほど働きかけてくれるのか考えてみると、とても不思議な感じがしてきます。そして、その逆も言えるのです。

つまり、自分の心の在り様によって、それが外の景色に色濃く影響を与えるということです。それは、きっと誰もが一度ならずとも経験しているはずですね。

すごく落ち込んだときには、確かに街の色彩が濁ったように見えてくるものですし、悦びに溢れた心の状態のときにはキラキラして見えてくるものです。

絶望していれば、風景が灰色になるでしょうし、何かとてもいいことがあってウキウキしていると、ゴールドを帯びて見えてきたりするのです。

あれは、単なる気のせいではなくて、正真正銘の、気(エネルギー)のせいなのでしょう。心の中のエネルギーの状態によって、知覚が強く影響を受けるということです。

それほど、私たちの感性とは繊細で微妙なものなのです。あなたの知覚は、街の風景をどのように捉えていますか?よく観察してみて下さい。

あなたの外側には、あなたと関係のないものは一つもありません。すべてが、あなたの心を映し出す映像なのですから。

問題を解決しようとする戦いをやめる

ある問題が発生して、それを解決しようとするとき、一つの方法では解決しないと分かれば、考えられる限りのそれ以外の様々な方策を試してみると思います。

あるときには、どれかが成功するかもしれないし、場合によってはどれを試しても決してうまく行かないということだってあります。

もしもその問題が、人生レベルで起きた大きな問題だったとしたら、あらゆる努力をして何とか解決しようと努めるはずですね。けれども、それがすべて裏目に出たり、やればやるほど悪い状態へと進んでしまうということもあるのです。

本当に万策尽きたと感じたとき、あなたならどうするでしょうか?それはもう観念するしかありません。もう方法はないのですから。行き詰まり、進むべき道がなくなったのですから、そのままにしている以外ありません。

そしてそのときにこそ、今まで一度も思ったこともないような発想がやってきてくれるのです。そうか、もしかしたら何とかして解決しようと躍起になっていたこと自体が間違っていたのかもしれないと…。

本当に追い詰められたとき、神は確かに贈り物を与えて下さるのです。それは、今までの自分の正しさや考え方、常識、あるいは経験知からは想像もできないくらい、非常識なことかもしれません。

その答えが、自分にとって非常識で、まったくあり得ないという思いが強ければ強いほど、それは本当にあなたを救ってくれる可能性が大なのです。

あなたの人生に立ちはだかる多くの問題は、実はあなたの考え方で人生を生き抜いてきたその結果だったということに気づけばいいのです。決して、偶然に起きた問題ではないということです。

そこには、正確な因果関係があるのです。あなたが、自分にとって都合の悪いことから逃げようとしたり、戦って乗り越えようとしたり、無視しようとした結果だということです。

そうしたルールを一度脇へ置き、あらゆる出来事、あらゆる心の反応から逃げないでいることです。心理的に何もしないということができたとき、問題はおのずと問題ではなくなっていくのです。

それは、決して解決するという発想からはやってこない結末なのです。