本質への気づきは体験ではない

人生は一度しかないのだとしたら、すばらしい体験をたくさんしたいものですね。感動することや、悦びで胸が張り裂けそうになる体験とか。

場合によっては、奇跡的な体験や精神的な超越体験などといったことも含まれるかもしれませんが、私の場合には残念ながら人が羨むようなすごい体験をしたことがありません。

生来の物ぐさのせいで、体験そのものが少ないということもあるかもしれません。どこにも行きたくないし、わざわざ危険を冒して山に登ったり、スリルを味わうためにバンジージャンプをしようという気もありません。

急に○○のラーメンが食べたくなって、飛行機で北海道まで行ったことがあるという話しを聞くと、自分には到底できないことだと思うのです。

そういう意味からすれば、刺激の少ないかなり平坦な人生だという自覚があります。特に、年齢を重ねるごとにその傾向は強くなってきた感じがしています。

そんな私ですから、自分の本質に気づいたなどと言っても、本当は別にどうということではないのです。それは、当然のことながら、私の個人的な努力の結果でもないし、自分の手柄は皆無です。

もっと言えば、本質への気づきとは実は上で述べたようなどのような体験とも異なるもので、それ自体を体験というのは間違っているという感覚もあります。

私という自我が、覚醒体験をすることはできません。自我ができるのは、あくまでも興奮するような体験なのです。それは、強烈であるがゆえに、一過性のものなのです。

本質への気づきは、本質そのものがそれ自体に気づくことであるので、私の自我が入り込む余地などないのですが、自我は巧みにそれを自分の体験と判断し、何とか自分の手柄のように考えようとするのです。

本質への気づきは、体験ではないので永続性があり、常に冷静なものです。一瞬感動したりするのは、自我が勝手にそれを体験として横取りするからです。

気づきが他のどんな体験とも異なるのは、そうしたことが原因なのですね。真実には、どんな手柄もそれを喜ぶ誰もいるわけではないのです。

何も得ることはできないし、何も失うこともできない

赤ちゃんは丸裸で何も持たずに生まれてきます。だから、しばらくの間は親や周りの環境によって、食べ物が与えられ、着るものが与えられ、安全に過ごせる場所も提供されます。

ところが、成長するにつれて、自分が欲するものを自分の力で手に入れようとし出します。与えられるだけでは満足できず、また周りも自分の力で手に入れられるようにと促すからです。

そうして、欲しいものは努力して手に入れるという人生が始まるのです。お金が欲しければ、働いて手に入れるし、名声が欲しければ、頑張って人一倍成果を出すために努力するのです。

そうやって、私たちは欲しいものを頑張って手に入れることで幸せになれると信じ込んでしまうのです。そのうちに、いくら努力をして何を手に入れようとも、満足していられるのは一時的なことだと気づいてしまいます。

さらに、どれほどのものを手に入れられたとしても、死ぬときには生まれた時と同様に、何も持っていくことができないことを知っています。

だからこそ、人によっては物質的なものを求める代わりに、精神的な満足を得ようと考え出すのです。それはつまり、物質を介さずに深い心の平安を手に入れようとするということです。

精神修養を積んだりして、悟りの境地に到達したいと望むようになるのです。けれども、どちらにせよ何かを求めるということでは一つも変わってはいないのです。

物質的な欲望が精神的なものへと目的が移っただけの話しです。あなたが本当に手に入れられるもの、それはあなた以外の何かに違いありませんね。

あなた自身を手に入れるということは不可能なことです。その上で、あなたの本質である全体性に意識を向けるなら、あなたは何も得ることはできないし、何も失うことができないと気づくはずです。

私たちが真に求めてきたもの、それは決して手に入れることのできない私たちの本質だったのです。これほどの冗談もないでしょうし、これほどの幸運はほかにはありません。

大切な宝物は常に身近にある

都会に暮らす人々にとって、隣人との人間関係は田舎のそれよりも稀薄なものになっているというのは、よく聞かれる話しですが、事実かもしれませんね。

マンションのお隣さんとは話しをしたこともない、などということが稀なことでもないからです。実際、私も事務所に使っていたマンションのお隣さんの中で、最後まで顔も知らない方がいましたから。

避けているわけではないのですが、お話しをする機会さえないのですから、ある程度は仕方のないことです。一軒家であれば、庭先などで自然とお話しができたりするのですが…。

そして場合によっては、騒音問題なので隣人との間でいがみ合うということだって起きたりしますので、隣人同士が本当の意味で仲良くなるというのは難しいようです。

それは、個人の場合に限らず、国同士の場合にも言えることです。とかく隣国というのは、利害が直接ぶつかり合うことが多いのがその原因だと思うのです。

北朝鮮は言うに及ばず、中国や韓国などの隣国は、それ以外のすべてののアジアの諸国が日本に対して好ましく思ってくれているのに比べて、特別日本とうまく行ってないと言わざるを得ません。

お隣さんなんだから、仲良くしなければならないというのは、表面的な考えに過ぎません。隣だからこその様々な問題が起きてしまうのです。

私たちにとって、最も身近な存在と言えば、それは間違いなく家族です。家族に対しても、同じようなことが言えるのではないでしょうか?

つまり、家族とは親しい関係であるがゆえに、より込み入った人生レベルでの問題が起きるのは当然のことです。家族との問題がクリアされれば、ほとんどの心の問題は癒されてしまう理由もここにあるのです。

家族の誰かとうまく行っていないという自覚が過去にあるのでしたら、あなたが日々抱える現在の問題は、それ自体をいくら改善しようとしても思うようにはならないはずです。

現在の問題を生み出す本当の原因はあなたの心の中にしまわれている、家族との関わりにおける様々なわだかまりや感情にあるからです。

あなたのもっとも身近なところにこそ、あなたが目を逸らしている大切な見るべき宝物が隠されているのです。隠しているのは、勿論あなた自身なのですけれど…。

「見る」ということのもう一つの体験

私たちは普段、自分の周りにあるものを見るときに、そこに光が介在しているということを忘れてしまい、見える通りにそこに見ているものがあるのだと思い込んでいます。

けれども、実際にはそこにあるものを見ているのではなくて、それに光が当たって反射して返ってきた反射光をただ見ているに過ぎません。

私たちが見ているのは、どんな場合にせよ光なのです。光以外のものを見るということは不可能なことです。それは、まぶたを閉じてしまえば何も見えなくなるので明らかです。

肉体の目に入った光を脳が感知して、その光を「見える」というように認識しているのですね。これが、主体と客体による観察をベースとして成り立っている科学による論理的な説明です。

こうした科学の説明は、確かに正しいのですが、それはあくまでも2人称、3人称の世界での話しです。本当は、それとはまったく異なる真実もあるのです。

真実は、常に1人称の世界です。肉体の目でそれ自身を見ることはできないということでも、知覚の限界、つまり科学の限界を簡単に知ることができます。

あくまでも1人称で自己を深く見ていくと、自分が透明な大きな目であるということが分かります。その目は、外の世界を見ているのではなく、自分自身を直接見ているのです。

直接という意味は、へだたりがないということ。自分自身との隔たりなどあるはずがありません。それは不可能なことです。直接見るためには、光など必要ありません。

私がいつも「見る」と言っているとき、この直接的な体験のことを意味しています。つまり、「見る」とは自己に気づいていることなのです。

あなたが何かを見ている時、それは肉体の目で知覚しているのと同時に、あなたの本質がそれ自体を体験しているのだということに気づいていることです。

神に近づくことはできない

私は子供のときには、どんな難しい質問をしても明快に答えてくれる存在がいたらどんなにいいだろう、それだけで救われるのにと思っていました。

例えば、なぜ宇宙はこのような形をしているのかとか、なぜ人間がいて自分はその一人としてこの人生を生きているのだろうとか、一般的には、このような質問にも答えられる存在を神というのかもしれません。

その全能の神に少しでも近づきたい、より神聖な精神の持ち主になりたいと思う人と、所詮自分は未完成な人間として生まれたのだから、それはそれでいいと思う人がいるはずです。

前者の人たちは、神という存在を自分の外にあるものと見ていて、修行を積んだり、帰依したりして神のご加護を受けられるようになりたいということなのかもしれません。

こうした人たちは、敬虔な信者になることが多いのかもしれません。私の周りにもこのような人がいますが、大抵はとてもいい人たちです。

一方、私は後者の考え方でずっと生きてきました。自分がどれほどの努力をしたところで、神に近づくことなど到底できるはずがないという考えです。

だからこそ、生まれながらに自分は無宗教だという自覚があったのです。今にして思えば、このことは私にとってはとても好都合だったのです。

なぜなら、神という存在を自分の外側にイメージすることがなかったからです。そのおかげで、自分の本質に気づかされたときに、何の躊躇もなく自分の本質こそが神なのだという感覚が、ス~っと入ってきたのです。

一度でも神という概念を作ってしまうと、そしてそれが自分の外側にあるという想いが信念として固定されてしまうと、それ自体が大切な気づきの邪魔をしてしまうのです。

神はあなたから離れて、遠いどこかに存在するのではありません。あなたの全体性、その本質自体が神なのです。あなたという純粋な意識、内側も外側もなくただ在るもの、元々がそれなのですから近づくことなどできないのです。

傍若無人な人への怒り

傍若無人という言葉がありますね。辞書によると、「人前をはばからず、勝手に振る舞うさま。他人を無視して、勝手で無遠慮な言動をする様子。」とあります。

「傍らに人無きが若(ごと)し」と訓読みするそうです。生まれたばかりの赤ちゃんや幼児のことをそう呼ぶ人は誰もいませんが、幼稚園や小学校に行くくらいの年齢になっても言動や態度が変わらなければ、そう呼ばれるようになるかもしれません。

傍若無人とは、ある意味何のルールも課せられていない状態であるとも言えますね。通常私たちは、年齢を重ねるごとに最初は家庭(親)のルールを与えられ、そしていずれは社会のルールに取り込まれていくのです。

そうしたルールに従って生きている限りは、傍若無人などとは言われないで済むわけです。なぜ、傍若無人な人がいるのかというのは、一旦脇に置いておくとして、傍若無人な人がそばにいるときに、腹が立ったりしたことがあるはずです。

何らかの実害がある場合は、怒りが出るのは当然のことですが、これといった実害がないにもかかわらず、腹が立つという経験をしたことはないですか?

もしもあるのなら、その理由を考えてみて下さい。一体自分の心は何に反応しているのだろうかと。内面を見てあげることはより深く自分を知るチャンスになります。

実は、私たちはルールに従って生きることで、ある一定の安心を与えられるのですが、その裏では必ず自己犠牲が発生しています。

なぜなら、ルールを守ることで自分の好みや欲求とは正反対の言動をしなければならないことが多々あるからです。もしも、より強いルールに縛られていれば、その分だけ我慢や自己犠牲は大きなものになってしまいます。

そうなれば、必ずやノールールで生きている傍若無人な人を見るだけで、怒りが出てきてしまうのです。本当は、自分だってルールに縛られない自由な生き方をしたいのに、という想いがあるからです。

その怒りの向かう先は、自分にきついルールを与えた両親だったり、社会なのかもしれません。あるいは、ルールを易々と受け取ってしまった自分自身に向くという場合だってあるのです。

ルールの緩い人に対して殊更に怒りを感じるという自覚がある場合には、相手の言動を直させようとするだけではなくて、こうした自分自身の心の状態に気づいてあげることが肝要ですね。

幸せは手に入れられない

一般的に言えば、誰もがより多くの幸せを手に入れたいと願っているはずです。よほどのひねくれ者でもない限りは、自分の人生を満ち足りたものにしたいと望んでいます。

そのためには、欲しいと思っているものを着実に手に入れて、少しずつ不満を解消していけばいいのだと信じているのです。物質的な豊かさだけではなくて、精神的にも安定したいのです。

最愛の人に愛されて、快適な暮らしを手に入れて、穏やかな心で日々を満喫できたらいいなと思うのです。私たちの幸福感というものは、人によって違いはあるものの、大抵は○○だから幸せなのだと説明できるものです。

けれども、そうした幸せは長続きしないものです。なぜなら、この世界で起きていることはすべてが一過性のものだからです。幸福であるために、何かを必要とするなら、その幸せには永続性がないと言わざるを得ません。

これは、いい悪いの問題ではなくて、事実です。こうしたことは、人に言われるまでもなく、どこかではっきり気づいているはずなのですが、そこを直視するのが怖くて目を背けているのです。

直視してしまったら、一体どうすればいいのだろうと、途方に暮れてしまうことになるかもしれないからです。それまでの生き方に期待できなくなってしまうのですから。

こうなったら安心できる、これが手に入ったら幸せ、そうやって今足りないと感じているものを補充することで幸せを掴もうとしてきたことを否定することになるからです。

けれども、方法はあります。幸せは探すことができるという思い込みを放棄するのです。なぜなら、完全に満ち足りた状態にあるものが、それを探すなどということは不可能なことだからです。

この世界の背後に隠されている真実に目を向けること、空間や時間も含めてすべての現象が起きている土台に意識を向け続けるのです。

そうすると、何かを探すとか、手に入れるということが不可能だということに気づくはずです。自己の本質としての不可能性に気づくとき、ただ在るという静かな恍惚が顕われてくるのです。

透明人間になったら…

先日ネットで「インビジブル」という映画を観ました。題名からして、何か見えないもののお話しかと思ってみたら、人が透明になる、いわゆる透明人間の映画でした。

ちょっと面白いなと思ったのは、初めて透明になった主人公が、とにかく眩しいと言った言葉でした。本人によると、まぶたも透明なので、目をつぶっても明るいままだということでした。

さらに、気づいたのですが、目の中に入ってくる光の量を調整する瞳孔も透明なのですから、すべての光が目に入ってきてしまうわけで、それはもう眩しいのは当然のことですね。

それから例によって、自分が透明人間になれたらどうなんだろうと考えたのですが、女湯を覗くとかいう男子生徒的な欲望のことは一旦脇に置いて、それなりに真剣にイメージしてみたのです。

自分の身体が見えないということは、いつもの状態に比べてもっともっと自分は意識だということを感じることが、誰にでもできるのではないかと思ったのです。

普段、今日一日自分が何をしたかということを回想するときに、大抵自分を身体だと見て思い出しているのですが、そうしたことが減るのではないかと思うのです。

いつもどんなときにも、自分の近くに在り続ける身体が視界から消えたら、何者でもない自分の感覚を忘れなくなるのではないかということです。

自分の内側から自分の顔や頭を見たときに、そこが完全なる透明な領域であるというあの感覚が、いつも邪魔されずに在り続けてくれるのではないかということです。

身体が見えなくなれば、自分が移動しているといういつもの感覚も消えてくれるはずです。自分という意識が、大きさもなく、移動することもない、あの感覚が常にあることになるのでしょう。

誰もが当り前のように、自分の本質に気づくことになるはずですね。透明人間、侮れません。

精神的な栄養失調

毎日通っているスポーツクラブのサウナで、顔なじみになったオジサマの一人が突然、「オレ、栄養失調なんだよな~」と言ったのです。

周りにいる誰もが一瞬ポカンとしたのですが、それはご本人が胸板の厚い、見るからに体格のいい人だからです。「え、そんなこと言ったら、本当の栄養失調の人が怒りますよ…」と私。

さらに私が、「もしかしたら、奥様や医者に忠告されて、食べたいものを食べたいだけ食べられないから、そんなことを言うんじゃないの?」と言ったのです。

そうしたら本人が、「ここでも、家と同じことを言われちゃう」とぼやきながら、わざと可哀想な自分を装いつつサウナを出ていきました。そこにいたみんなが、おおいに受けたのは間違いありません。

本当は、健康のことなど構わずに好きな食べ物を思う存分食べたいという切実な思いが、心を栄養失調にしてしまっているということを言いたかったのだと思うのです。

そういう満たされない気持ちというのは、誰の心の中にもあるものです。私たちが本当に満たされていないのは、食事のせいではなくて、自分の本質を忘れてしまっているからなのです。

植物を抜き取って、根っこの部分を大地から離してしまえば、その植物は大地から受け取ってきた栄養が来なくなってしまうために、いずれは枯れ果ててしまいます。つまり、死因は栄養失調なのです。

私たちにも同じことが言えるのです。自分のことを一人の個人だと思い込んでしまったために、本質からやってくる栄養が届かない状態にあると感じるのです。

それは、激しい欠乏感をもたらすことになるのです。それを何とか埋めようとして、欲しいと願っているものを手に入れることで満足したことにするのです。

けれども、当然のことですが、本当に足りないのは本質との繋がりなのですから、どんなものを物理的に獲得できても、満たされないわけです。

あなたの心の奥にドシッと鎮座している、精神的な栄養失調を逃げずにしっかりと見据えることです。そして、安心することです。

なぜなら、私たちの誰であれ、一度として引っこ抜かれた植物のようになったことなどないのですから。今までも、そしてこれからもずっと本質そのものであることに気づけばいいのです。

防衛システムが怒りを抑えるケース

このブログでも何度か書いたことがあったと思うのですが、ストックホルム・シンドロームについてまた書いてみたいと思います。

今から数十年前にストックホルムで起きた銀行強盗事件において、犯人は一週間にもわたって人質をとって立てこもるということがあったのです。

その事件の間に、犯人の若い男性と人質の中の女性との間で結婚の約束をするという奇妙な事態があったのです。警察が武装して踏み込もうとしたときも、人質が警察を敵対視するということまであったそうです。

簡単に言ってしまえば、生きるか死ぬかの究極の精神状態においては、犯人を嫌っていては自分が生き残るためには非常に都合が悪いと、人質の女性の潜在意識の中にある自己防衛システムが判断したのです。

そのために、その女性は自分の防衛システムにコントロールされていることに気づかぬままに、犯人に対して愛情を感じるようになってしまったということです。

こうしたことは、シンドローム(症候群)と呼ばれるまでもなく、極限状態において私たちの心理的防衛システムがとる作戦としては十分に理解できることなのです。

このような極端な自己防衛が、一般家庭の中においても当然のごとく起きうることと言えます。幼い子供が不安の中で生き抜くということを考えた場合、親への絶対服従は死活問題なのです。

親に逆らうことが自分を危険へと落としめると思い込めば、子供は親を絶対視するでしょうし、自分の心に発生した親への怒りを必至に隠そうとするのです。

そうなれば、親への怒りはすべて気づかぬうちに心の奥底へと隠してしまいます。それが短い間であれば問題はないのですが、長い間には溜めこまれた怒りや不満が問題行動となって表面化することになるのです。

そうしなければ、心のバランスが崩れて大変なことになってしまうからです。私たちの自己防衛システムは非常に巧みに自分を安心させようとするのですが、それが仇となって長い間には様々な苦しみを生むことに繋がるのです。

成長段階において、親に対して怒りを感じたことがないという場合には、こうしたことを疑ってみる必要があります。もしも思い当たるという場合には、是非一度じっくりと過去をおさらいしてみることですね。