「降参」の意味

曖昧な記憶なのですが、幼いときにいろいろな童話や昔話のようなものを、絵本で読んで聞かせてもらったりしたことがあったと思うのです。

そうした物語には、大抵正義の味方と悪者の対立があって、最後には悪は戦いに負けて降参して逃げて行くという筋書きがありました。

例えば、、桃太郎にやられて降参した鬼とかね。この「降参」という言葉は、幼いころに何度も聞かされた特徴的な響きを持った言葉だという印象を持っています。

ところが、大人になって降参という言葉はほとんど使わなくなってしまいました。それはきっと、降参するのは悪者であって、しかも弱くてカッコ悪い者の代名詞のような雰囲気があるからなのでしょうね。

子供とじゃれ合っているときに、「パパはもう降参だよ!」という具合にはもしかしたら使ったことがあったかもしれませんが、真剣な場面で降参という言葉は禁句なのでしょう。

それは、戦いに敗れた、しかも完敗を意味する言葉なので、人生は戦いだとばかりに急き立て続けねばならない自我としては、非常に都合の悪い言葉なのかもしれません。

けれども、この降参という言葉には、戦いに敗れて服従するという意味合いとは裏腹に、もっと清々しい精神状態になる種子のようなものを感じることもできるのです。

実際、降参という意味の英単語は、surrender ですが、この単語には明け渡すという意味もあるのですから。降参には、戦いをやめてすべてを受け入れるという意味合いがあるのですね。

そういう意味では、降参は、観念することでもあるし、明け渡すことでもあり、また委ねるという意味合いとしても使っていいのかもしれません。

幼い大切な時期に、敗れて服従するという意味での降参ばかりを教え込まれたことは、自我に乗っ取られた大人やこの社会が、無意識の悪意を持って洗脳しようとしていたことをうかがい知ることができます。

つまり、お前は降参したらもうお終いになるぞ!といったような恐怖の植えつけです。すべては自我(エゴ)の策略だったわけですね。

まずは、自分から戦いをやめて降参する人生へと変えていくことだと思っています。それこそが、自分と世界のすべての救いに繋がることだからです。

驚くことの素晴らしさ

みなさんは、今まで当り前のように思っていたことなのに、ある時何の前触れもなく突然にそれまでと違った感覚になったことはないでしょうか?

表現が上手にできないので伝わらないかもしれませんが、きっとそうした体験をされたことがあるはずです。今朝、クルマを運転している最中に、それがやってきました。

といっても、5秒くらいのとても短い時間だったのですが…。それは、一口で言うと、見ている景色に驚いている状態になったということなのです。

何を驚いているのかというと、見えるものすべてに対してなのです。すごく驚いていて、これは奇跡だと小さな声でつぶやいたように記憶しています。

今この瞬間、こうして生きていて、この世界がこのようにあって、それを体験していることの不思議さ、そのことについて驚いているということです。

以前にも、ごくごくたまに似たようなことはあったのですが、それがまたやってきたということです。この体験は、過ぎてしまうと実は何だかもうはっきりとした実感が残っていないのです。

けれども、とにかく不思議さに驚いていたという事実だけは記憶に残っています。そして、それは単なる興奮というよりも、活き活きとした素晴らしい体験をしているという感覚があるのです。

書いていて、今また少し思い出したのですが、その瞬間、すべてがスローになるというか、極端に言えば止まっているような感じもしていたかもしれません。

毎日のように顔を合わせている相手のことを、どういうわけか短い時間ですが極端に愛しいと感じる瞬間を経験したことはないですか?それととても近いものがあるのです。

あの感覚が、ずっと続いてくれたら、あらゆる問題、どんな苦悩すらも消えてしまうかもしれません。正確に言えば、消えるのではなくて苦しみも包含して完璧だという感覚ですかね。

私たちは、きっと子供のころはもっともっと驚いていたはずです。その驚きがまた呼び戻されるなら、こんな悦びはないかもしれませんね。

理想の自分像を取り下げる

もしも、あなたが理想の自分像というものを掲げているとしたら、そしてそれを強く欲しているとしたら、その分だけあなたは激しい自己否定に苛まれているはずです。

なぜなら、その理想像というのは自分が本当にそうなりたいと願っているものではなくて、それは誰からも否定されずにいられる自分になることで安心しようとしているだけだからです。

あなたは自分をトレードに出しているようなものなのです。頑張って、我慢して自分の自由を抑圧した見返りとして、理想の人物像を実現して安心しようとしているからです。

けれども、残念ながら誰からも否定されないような人物というのは、この世には存在しないのです。その目標に到達することは不可能なことなのですから、そこに救いはないのです。

あなたが作った理想の自分像とは、実のところ親や社会から押し付けられたものに過ぎません。あなたのオリジナリティは何も発揮されていないのです。

人間とは未熟で不完全な存在なので、もっとこういう自分に成長したいと願うのはごく自然なことなのですが、その思いが強くなり過ぎてしまうと、自己嫌悪の中でもがき苦しむことになるのです。

理想とのギャップを突きつけられて、現実の自分を呪うような気持ちになるかもしれませんが、その影で「自分の自由にさせろ!」と訴えている自分もいることを忘れてはなりません。

理想を目指す部分をマインドだとすれば、自由になりたいと訴えているのはハートだと表現できます。ハートは感じる部分であると昨日のブログで書きましたが、ハートは正直です。

一方、マインドは自己防衛の塊りなので、恐怖がその根底にあることを見抜いて下さい。あなたが掲げている自分の理想像をもう一度チェックしてみて下さい。

そして、それを一旦脇に置き、心の底から願っている本当の気持ちに気づいてあげることです。あなたは、毎日をただ自由に楽しみたいだけなのではないですか?

無防備な子供のように、でたらめ語の歌を歌い、ただの自分自身である無目的な今を生きたいと願っているのではないでしょうか?

マインドが求める目的や価値や意義といったものをすべて脇に置いて、子供のようにハートですべてを感じる瞬間を夢見ているのではないでしょうか?

素直になって、感じてみることですね。

今を感じてみる

毎日何かと忙しくしているあなたに、一つ質問をしたいと思います。あなたは、一日のうちにどのくらい、何もしないでいる時間を持っているでしょうか?

忙しいのだから、何もしないなどという時間を持つことなどできないと信じているのでしたら、それはもうあなたの自我の作戦に乗せられていると思って間違いありません。

私たちは、何もしないでいる時間は、貴重な時間を無駄に過ごしたことになると固く信じ込んでいます。何もしないのですから、何の成果も結果も期待できないわけですから当然かもしれません。

本でも読めば少しは知識が増えるでしょうし、テレビでも見て楽しめばストレス発散の効果もあるでしょうね。それに比べて何もしないでいるなんて、怠け者でもない限りはできない相談だと思っているのです。

けれども、実は何もしないでいることは、自我にとっては脅威なのです。自我は、常にあなたを戦いへと駆り立てていなければならないからです。

だから、あなたはじっとして何もしないということができないのです。たとえ一分でもいいのです。何もせずに静かにしていることが、如何に大切な事なのかを是非分かって欲しいのです。

自我がマインドだとすると、よりあなたの本質に近いところはハートと呼べるかもしれません。マインドは思考であり、ハートは感じることです。

私たちは、無邪気で自由な幼いころに、親や社会からコントロールされ、方向づけられて、その度ごとにマインドを鍛えてきてしまったのです。そのために、感じるというハートの機能をおろそかにしてきたのです。

思考が目まぐるしく活動していると、感じることがおろそかになるのです。もっともっと、感じて欲しいのです。何を感じればいいのでしょうか?

それは、あなた自身に対してだったり、あなたが今まさにこの瞬間にいるということに、鋭敏になって欲しいのです。そのためには、短い時間でもいいので精神活動をしないでいるようにすることです。

街角で立ち止まって空気感を感じたり、ほんの短い時間であってもいいのでもっとハートを使ってあげることです。気が進まない中、敢えて長い時間瞑想をしなくても構いません。

そういうことを繰り返していくうちに、あなたは自分が毎日自分自身のペースで生きていないということに気づくかもしれません。

今を感じることができたら、あなたの毎日の質は間違いなく変わっていくことでしょうね。

瞑想的に生きる

この一か月くらいは、左肩を痛めてしまったせいで、水泳を控えているのですが、そのために朝一で誰もいないスポーツクラブのお風呂にゆっくりと浸かれる生活が続いています。

サウナでも、独り静かにほとんど瞑想するような状態になることができるのです。それまでは、騒がしくも楽しいオジサマ連中とバカ話ばかりをしていたのですが…。

そして気づいたのですが、瞑想的になっているときの方が、100℃の暑さの中でそれまでよりも数分長く入っていられるということです。

暑さに変化はないのですが、暑さの質が変わった感じが確かにするのです。自分なりに考えてみた結論はいたって簡単、それは思考が緩むからなのです。

瞑想的な状態になると、当然いつもよりも思考が緩むのですが、そうなると思考をツールとして自分に自己防衛を強いてきた自我がパワーダウンするのです。

そうなると、戦うモードが一気に減ってしまうということです。普段は、気づかぬうちに暑さと戦っていたのでしょうね。戦えば、それだけ暑さは苦しみとなるのです。

一方で、暑さと戦わなくなればなるほど、暑さと共にいられるようになるということです。暑さを敵対視する思考が消えてしまうからですね。

子供は少しぐらい熱を出しても、大人のように具合が悪くはならないものですね。40℃近くなってはじめて、急激に元気がなくなってバタッといくのを何度も目にしたことがあります。

大人の場合は、熱が上がったということを知ると、思考によってその熱から自分を守ろうとするために、心理的ダメージが先にやってくるのです。

それに比べて、子供は好きな遊びを続ける限りは、思考上位になることがないために、熱を敵対視しないでいるわけです。そのために、熱出しによる心理的ダメージがないのでしょう。

だから、身体がもう無理となるまでは元気に遊び続けることができるのですね。思考優先で生きるということは、それだけ防衛的になって、苦悩が増えるということなのです。

出来る限り、日々瞑想的に生活できるようにしたいものですね。

自己啓発セミナーへの魅力

クライアントさんとお話しをしていると、時々「自己啓発セミナー」の類の話題が出ることがあります。私自身は、そうしたセミナーの経験がないのですが、意外に広く普及しているもののようですね。

体験もないのに決めつけるようで、若干気が引けるのですが、私はきっとこの先も自己啓発のような、自分をもっと成長させるとか、より高次の意識になるなどのことには興味を持たないと思っています。

自己啓発セミナーに何らかの魅力を感じて、参加してみようと思う気持ちは、十分に理解することができます。私自身も、自分の能力を十分に発揮することができていないという悩みを持っていたこともあるからです。

けれども、もしも今あなたがあなた自身やあなたを取り巻く環境、あるいはあなたの人生に対して何がしかの不満を抱いているとしたら、それは、これまでのあなたの生き方そのものに原因を見出す必要があるのです。

これまでの人生をより改善しようとするのであれば、あなたが魅力を感じたセミナーに参加するのは考えものです。なぜなら、あなたの人生の路線を変えようとして、その路線の延長線上のセミナーに参加しようとするようなものだからです。

そうでなければ、そのセミナーに魅力を感じることはなかったはずだからです。つまり、これまでのあなたの生き方、あるいは考え方を軸として、その先にそうしたセミナーが用意されているのです。

なるほど、セミナーによって一時的にやる気が出たり、テンションが上がって以前よりももっと前向きに人生を生きようとし出すかもしれません。

あなたの埋もれた可能性を引き出すチャンスに、今まで以上に気づくことができるかもしれません。けれども、少しもあなたの路線は変わってはいないのです。

それなら、人生はこれまでと全く同じように推移していくことになるはずです。しっかりと気づかねばならないことは、今のあなたを築いてきたのは、あなた自身の生き方やあなたが親や社会から植えつけられた信念や信条なのです。

自分の心の奥の小さな声に耳を澄ましてみることです。そうすると、それまでは気づけなかったあなたの本当の気持ちや、正直な声を聞くことができるはずです。

その声は、ただただ自分のままでいたい、誰が何と言おうと自分自身でいたいと訴えているはずなのです。人は、誰かにしつらえてもらったニセの自分を生きるのは、まっぴらごめんなのです。

立ち止まって、ゆっくりとそのことを噛みしめてみることです。それ以外に、あなたが満たされた生を生きていくことはできないのですから。

しっかり生きる

あなたは、今しっかり生きていますか?あるいは、過去を振り返ってみて、しっかり生きてきたという実感があるでしょうか?少し時間をとって、思い返してみて下さい。

しっかり生きるとは、目標に向かって一所懸命生きるとか、辛いことにもへこたれずに頑張るとか、自分を成長させるためにしっかり勉強するとか、そういうことではありません。

しっかり生きるとは、その時々の自分に正直に、ありのままに感じるままに、自分から逃げずに現在を生きるということです。

幼い無邪気な頃に、できるだけ無邪気に生きなければならない時期に、何らかの理由で無邪気さを使えなかったなら、しっかり生きたとは言えないということです。

泣きたいときに我慢したり、怒りたいときにぐっと堪えたり、笑いたい時に遠慮してしまえば、しっかり生きたとは言えないのです。

自分の気持ちを抑えて環境に迎合したり、その場が丸く収まればいいとして、素直な自己表現を控えてしまうなら、それもしっかりと生きたとは言えないのです。

しっかり生きるということをしないで過ごしてしまうと、その時のあなたが未来のあなたに向かって自分をしっかり生きて欲しいと訴えてくることになるのです。

そして、それが実現するまでいつまでも未来のあなたにまとわりついて、離れようとはしないでしょう。無邪気さをしっかり生きなかったなら、大人になっても子供っぽい無邪気さが突然出てきてしまうかもしれません。

しっかり泣くことを生きなかったなら、ある日突然理由も分からずに涙があふれてきて困ってしまうということが起きるかもしれないのです。

人にどう言われようとも、たとえ気まずい状態がやってきたとしても、できる限りその時々をしっかり生きるという決意をすることです。

そうすれば、あなたは過去からの追ってに悩まされることはなくなっていくはずです。しっかり生きようとすると、社会はあなたを敬遠するかもしれません。なぜなら、社会はあなたにしっかり生きて欲しくないからです。

しっかり生きて来なかった人たちが作った社会は、誰に対してもしっかり生きないようにと促すのです。その結果、私たちは幼いころからしっかり生きることを阻害されてきたとも言えるのです。

今日からでも決意して、お互いにしっかり生きることにしましょう!

あなたはあなたのままでいい

昨日のブログで書いた、「明日は明日の風が吹く」という言葉に対して、自分の中にも否定的な捉え方をする気持ちがないわけではありません。

明日のことも考えずに、無計画に場当たり的に生きるいい加減さをイメージするからです。小6の時に担任だった大好きな先生が、寄せ書きに書いたこの言葉を変えさせようとしたのも分かるのです。

それを分かって、敢えて書いたのです。それは、ルールや正しさで人を縛ろうとするこの社会に対するささやかな当時の自分なりの反逆だったのだと思います。

子供の頃に、自分は何のために生きているのだろうか?とか、生きる目的は一体何だろう?などと考えていたこともあるのですが、みなさんはどうですか?

自分はその時に、早々に人生に目的などないのだ、とやってしまったのです。だから、その時から目的などないということが自分には当り前になってしまったのです。

だから、他の人のように目的探しをしなくなったのです。人生に意義を見出そうとする努力をする必要がなくなってしまったというわけです。

今でも本当のところ、何の目的もありませんし、どこへも到達する場所もないというのが実感なのです。何か、自分にしかできないことを探す、などということもありません。

「一年生になったら、友達100人できるかな~♪」という歌がありますが、自ら率先して友達を作ろうと思ったこともないに等しいのです。

この世界、この社会が教えてくれた、「このような人になりなさい」というものが、自分には元々当てはまらないし、興味もないということが分かっていたのでしょうね。

人は勿論社会的な存在です。関係性の中でしか生きることはできません。けれども、友達がいないとダメな奴だとか、目標や夢を持っていないと恥ずかしいといったことはないのです。

そうしたことのすべては、自我が私たちを戦わせようとして、仕込んだ洗脳の手口なのです。素晴らしいこととは、あなたがあなたのままでいて、少しも恥じることなどないと気づくことなのです。

正義の味方は辛い!

大人になっても自分のことを盛んに否定している人を見ると、どういうわけかクソ真面目だった子供の頃の自分のことを思い出してしまいます。

小学生の頃、低学年での記憶は正義の味方だったことです。弱いものをいたわり、強いものには向かっていくという信念があったのですが、なかなか辛いものがありました。

学校の水飲み場で高学年の男子たちが、か弱い女の子をイジメているのを見かけたら、自分が立ちはだかってその子を守ろうとするけど、かなり勇気が必要だったのです。

そんなわけで正義の味方の毎日は、辛いだけであまり実りのある毎日ではありませんでした。3~4年生になると、クラスの中での正しさを主張するようになりました。

先生が不在のときなどに、静かに自習するように言われていても、みんなはここぞとばかりに騒いで収拾がつかなくなったりするのですが、そこでも正しさで人を導こうと奮闘努力をしていたのです。

そうすればするほど、友達との間に亀裂が入っていくのが本当につらかったです。その頃、夜寝る前には必ず一日の反省会を布団の中でするのが日課でした。

辛くて泣いたこともたびたびだったと思います。自分はこんなんでいいのか?もっと、こうしなければならないのではないか?とか、思うようにできない自分を否定していました。

ところが、5年生になったくらいから、一人反省会もなくなって行ったと同時に、もっと楽な生き方があるということに気づいたのですね。

心の中に正しさを求める気持ちがなくなったわけではないのですが、元々内在していた「もっと楽しもう!」の精神がその頃から台頭してきたということです。

そして、6年生のころにはもうすっかり自分のバランスを取る術を体得していたように思います。自分が選んだ卒業アルバムの寄せ書きの言葉が、「明日は明日の風が吹く」だったことを思い返しても、もう今とあまり変わらない生き方を選んでいたと思うのです。

こうした力を抜いた生き方は、社会人になってまた影を潜めてしまうのですが、癌を患ったことがきっかけで、再び力を抜いた楽な生き方に戻ることができたのです。そうして今に至ります。

人は何度となく、バランスを崩したり、バランスを取り戻したりということを人生の中で繰り返すものなのかもしれないですね。

もしも、あなたが自分のことを否定し続けているのであれば、それはバランスを崩している最中であると認識することです。そして、手っ取り早くバランスを取って楽な生き方をしたいのであれば、心の癒しを実践することです。

気負いのない生き方

32年間続いた「笑っていいとも」がとうとう終わりましたね。サラリーマンの頃は、平日のお昼に観ることができないので、日曜日の午前中にやっていた増刊号?を観ていた記憶があります。

なぜこれほどまでに番組が続いたのかを考えてみたのですが、やはりタモリさんの人間性に起因する部分が少なからずあるのだろうと思うのです。

彼は、稀に見るごく普通のオジサンなのだと思います。あまりに普通過ぎるところが、すでにもう普通ではなくなってしまっているということかもしれません。

勿論タレントとしての才能がある人なのでしょうけれど、それよりもとにかく普通さが素晴らしいのです。なんといっても、気負いというものが感じられない。

気負いがないということは、それだけ自然体でいられるということです。それも明らかに、年齢を重ねるごとにより力が抜けた感じがするのは私だけでしょうか…。

誰かが言っていましたが、毎日毎日32年間も同じ番組をやっているのに、慣れてしまった感がほとんどないということも際立った特別なものを感じます。

気負いがない分だけ、慣れてしまうということもないということでしょうね。いつも、照れたあの笑い顔がそのことを物語っているように思うのです。

勿論司会者として、時間通りに番組を進めていかねばならないのは、大変なことなのでしょうけれど、それと同時に彼自身も一緒になって番組を楽しんでいるということが観ていて分かるのです。

人間、大変だと思うことはそう長くは続かないものです。そこに、自らも楽しんでしまおうとする要素がなければ、必ずどこかで息切れしてしまうものです。

力が抜けているのに、慣れてしまわない、そしてできるだけ楽しんでしまおうとする気持ち、こうした要素のバランスが上手にとれていて、見る者に安らぎを与えるだけでなく、飽きさせない魅力があるのでしょう。

真面目な大人の部分と無邪気でお茶目な部分のバランスも絶妙であると感じます。魅力的な人とは、そうしたバランスのとれた心の持ち主なのですね。