時々ですが、世の中には志が高いなあと思える人がいますね。同じ仕事をするにしても、その人の志が高いかそうでもないかということは、何となくその仕事の種類、その進め方や成果物などに反映されるものです。
志の高い人は、思い入れも大きいと言えるかもしれませんね。ですから、おのずと過程や成果の質の高さというものが滲み出てくるかもしれません。
例えば、いい政治家になって、国の将来を担おうと思っている志の高い若者もいるでしょう。実際、ある程度志が高くなければ、政治家になろうなどとは思わないはずです。
それなら、政治家に汚職や贈収賄の疑惑がいつも付いて回るのは一体どうしてでしょうか?実は本当に志の高い人というのは、当の本人にはそういった自覚はないものです。
端から見て、志の高さを感じるとしても本人的にはそうしたいからやっているというのが真実なのです。貧民救済活動で知られるマザーテレサの志の高さに異論を唱える人はいないでしょう。
しかし、彼女は自分は志を高く持って活動しているということではないと言明していました。ただ、神の喜ぶことは自分の喜びであるということで、その活動を続けたのです。
彼女の活動はシンプルに愛がベースにあったというだけなのです。そして、彼女自身、自分はとてもわがままに自分のしたいことを誰が反対してもやり抜いただけだと言いました。
逆に、自分は人に比べて志が高いというふうに自覚している人がいたとしたら、それはベースが愛ではない可能性があります。
心の奥に、自分に対する否定的な思いや嫌悪感などを強く持っていると、それを何とか打ち消そうとして志を高くしようとする場合があるからです。
その場合にはベースにあるものは愛ではなく、自分を否認しようとする防衛であるわけです。だから、その志の高さは愛の場合のようにずっと継続することが難しくなるかもしれません。
志を高く持ち続けるということは一見すばらしい事のように思われがちですが、このように分析すると、まったく違った見方ができるのです。