同一化によって人物が作られる

昨日のブログで、「私」という想念は、幼少期にあなたは身体だという押し付けを聞き入れてしまったことから発生することになってしまったのだというお話しをしました。

つまり、「私」とは、この身体なんだという思い込みによって作られた、一つの想念なのです。それは、純粋な意識が自らを一つの身体と同一視することによって、でっち上げられたものです。

一度出来上がった「私」という想念は、その後もそれ自身を存続させるために、あらゆるものを同一化し続けてきたとも言えるのです。

例えば、私たちは気軽に「私は女性です。」ということができますね。これは、「私」と「女性」という性別を同一視したことになるのです。

本来であれば、「私の性別は女性です。」と言わねばならないことは明白でしょう。なぜなら、私自身は性別ではないのですから。

他にも、「私は30歳です。」というのは、「私」を現在の年齢と同一視していることになりますね。本当は、「私の年齢は30(歳)です。」が正しい表現方法です。

こうしたことを挙げたらきりがありません。「私は日本人です。」→「私の国籍は日本(人)です。」ですし、「私は人間です。」→「私の生命体としての分類は人間です。」となるでしょう。

このように、「私」というのは実に巧妙にあらゆるものを同一視することによって、それ自体が断固として実体のあるものだとの証明をしようとし続けているのです。

過去に体験した様々な事柄でさえも、「私」はそれを自分と同一視することに余念がないのです。「私は金メダリストです。」とか、「私は大卒です。」など、あらゆる経験を自分と同一視してきたのです。

そうやって、肥えて太らせて出来上がったものが「私」という人物ということなのです。ですから、一個人としての人物である「私」というのは、同一化したものの寄せ集めに過ぎないのです。

もしもあなたが自分でしてきた同一化をすべて脇に置いて、これだけは自分自身に違いないというものを見い出したとして、それは一体何なのでしょうか?

それこそが本当の自分自身であるわけですね。是非一度試してみて下さい。本当の私とは何ものなのか、そのことを知らずに生きて死んでいくなんて勿体無いことです。

自分はどこにもいない?

今この瞬間、自分はどこにいると感じるかということについて、今年1年は本当に多くの人たちにお聞きしてきました。

そして分かったことは、それぞれがバラバラな印象を持っているということです。ある人は、頭の中にいると言うし、またある人はハートの中だと言い、またはお腹の奥にいると言います。

肉体のあらゆる部分の隅々にまで自分は行き渡っていると答えた人もいましたが、多くの人は身体の中のある特定の部位を示しました。

また、身体の外に浮いていると言った人たちもいました。後頭部の近くだと言った人、顔のあたりとか、胸の前辺りなどが多かったですね。

身体の外側にいると答えた人には、形や大きさについてもお聞きしましたが、それもまちまちであって、野球ボールくらいと感じる人や、もっと大きくてフワフワしていると答えた人もいます。

つまり、どういうことかというと、誰にも明確にこれが自分だと答えることができないということなのです。誰もが、こんな感じだとかここにいるような気がするということなのです。

それは個人的な感覚であり、個人的な印象に過ぎないということです。なぜ、最も身近な、これ以上身近なものはない、自分自身のことなのにこうした曖昧なことになるのでしょうか?

その答えは簡単です。それは、私たちが2~3歳くらいのときに、あなたは身体だという教えを受けてしまったからなのです。

もっと丁寧に、詳細な説明を与えられていたら、例えばハートのこの位置にこんな形でこれくらいの大きさのものだと教えられていたら、誰もがそれを信じていたはずなのです。

しかし、事実はといえばただあなたは身体だと教えられただけであったため、私たちはそれぞれがそれはこういうことなのだとの印象を勝手に作って、大切に持ち続けているということです。

つまりはすべてが思い込みの産物に過ぎないのです。私はこの身体を所有しているというならいいのですが、私は身体だという思いが信念のようになってしまっているのです。

したがって、何となくこの身体の近くに自分はいるという感覚を誰もが持っているのです。しかしながら、そうした思い込みを一旦脇に置いて、今この瞬間に本当に分かることだけで答えてもらうと、自分はどこにもいないということがはっきりします。

ところがこの結論に異常なほど異議を申し立てる気持ちがあるのも事実です。その理由も明白です。それは、もしも私が身体ではなくてどこにもいないとなると、「私」の存在が怪しくなってしまうからです。

そして、もう少し正確に言えば、自分は身体だとの思い込みをさせられてしまう前までは、「私」という想念がありませんでした。動物や赤ちゃんの状態と同じです。

「私」とは、身体との同一化と共に生まれた想念だからです。だからこそ、私は身体ではないということが明確になると、「私」はただの想念であるということが赤裸々になってしまうのです。

「私」には何の実体もないということほど、不安に感じることはないのかもしれません。しかし、ここで止まる話ではないということを知る必要もあります。

身体ではなくて、どこにも自分を見つけることができないけれど、私たちは「在る」という感覚を誰も否定することができないはずです。

この「在る」に意識をじっと向け続けてみれば、偏在している感覚へと向かってくれます。これはきっと自分自身への直接体験なのだと思うのです。

昨日と一昨日のブログにも書きました通り、私たちは自分の肉体のことすら直接認識することはできません。それはすべて知覚に頼っている間接認識なのです。

でも上記のとおり、「ただ在る」というものへの注意は、本当の自己への直接認識を可能にするものであると言えるのです。

そして、そのことに対する信頼を深めていくことによって、人は本当の意味で人生という苦悩のストーリーから開放されるのです。

直接知るとは? その2

昨日の続きです。

私たちが何かを知っているというときには、すべてが知覚と思考によって間接的に知っているということに過ぎないのだというお話しを昨日しました。

自分以外のことについては仕方ないとしても、自分自身についてはどうなのかと言えば、残念ながら自分自身のことについても、客観的に見ることができるだけです。

主体がそれ自体を知るという直接的な意味での知るということはできないのではないかということです。これはとても不思議なことです。

一番知っているはずの自分のことも結局他人が自分を知っているようにしか、自分のことを分からないというのですから。

しかし、たった一つだけ私たちは自分自身についての直接体験をすることができるのです。それは、直接認識といってもいいかもしれません。

それは知覚も思考も何も使わずに、直接「見る」ということです。それを教えてくれたのは、ダグラス・ハーディングという人です。

彼のやり方を使うと、誰もが本当の自分自身を直接体験することが可能です。それは、他人から見て顔があると思われる場所を指で指し示して、そこに何があるかを見るのです。

外側を指さして、そこを見れば部屋の壁やカーテンや、そのほか何でも自分の外側にあるものを見ることができます。

それと同じようにして、自分の顔があると想定される場所を内側から見るのです。そうすると、そこには外側の世界(物質)とは異なるものが見えてきます。

それは、透明な何もないものであって、でもその透明さの中に外側にあると思っていたすべての物質もそこにあると分かります。

つまり、外側の世界と内側の世界とは同じだったということに気づくことになるのです。個人としての私が外側の世界を見てそれを認識することは、間接的に知ることです。

そして、内側からそれを見るのは知覚でもなければ思考でもない、ただ直接見ているのです。これが、自分自身を直接知る唯一の方法かもしれません。

それを見ているのは、もう一個人としての私でないことは明白です。なぜなら、そうやって直接認識する自己とは、とても個人とは思えない無限の広がりがあると分かるからです。

これを本当の意味で言葉で表現することは不可能なことです。言葉とは観念を意味するだけだからです。この直接体験は理解するようなことではありません。

誰にとっても同様に提示されている直接認識できる自己を無視するかどうかは、あなた次第なのです。そして、それはいついかなる時でも認識できるものでもあるのです。

直接知るとは?

私たちはこの世界の物事のことをどうやって知るのでしょうか?私はあなたの名前を知っているというような表面的なことだけを話題にしようとしているのではありません。

もっと本質的なことです。例えば、「水」についていろいろな知識を持っていますね。しかし、それはあくまでも知覚によって体験したり、学習した結果として知ることになっただけです。

それは、水とはこういうものだとして概念化することによって知るということであり、またそれを基にして今手に触れているのは水だと認識するわけです。

ですが、本当にそれが水を知っていることになるのでしょうか?それは、厳密に言えば、知覚によって、そして思考による概念化、観念化によってただ情報として知っているに過ぎません。

それは私という主体が水というものを対象として知っている、分かっているということを指します。あるいは、他のものと水とを見分けることができるという程度のことです。

それは残念ながら間接的に知っているということを意味します。私たちが沢山の事柄について知っている、分かっていると思っていることとは、実はすべて間接的なことであり、それは信じているということと同義語なのです。

信じるとは、本質的には知らないことをそうに違いないとして、知っているということにしてしまう心の行為のことを指します。

もう少し詳しく言えば、信じるとは、一般的にはその裏に疑いの意識が残っている場合に使われる言葉ですが、疑う余地がない、あるいは疑う必要性がないときには、信じていることが知っているということに摩り替わるのです。

本質的には、自分自身が水そのものにならない限りは直接知るということは不可能なことなのです。では、主体である私は私自身のことを直接知ることができているのでしょうか?

そもそも直接知るということとは、主体がそれ自身を客体としてではなく知るということです。だとすれば、ほとんど何も自分自身について知らないということになってしまいます。

私が私自身のことを直接的には知らないとは、一体どういうことでしょうか?何とも奇妙なことだとは思いませんか?

結果として、私たちは自分以外のことも間接的にしか知りようがなく、そして私自身についても同様にして直接的には何も知らないのです。何一つ、知らない、分からない、これが真実なのです。

それはなぜかと言うと、直接的に知ろうにもその実体が何一つないからなのではないかと思うのです。だとしたら、この私とは一体何なのでしょう?

頭の上の強敵

心を静かにしてゆったりとくつろいでいられる時というのは、本当に穏やかで気持ちのいいものですね。瞑想すると、より深くくつろぐことができます。

そうした状態というのは、何か心配事や気になること、不愉快なことや否定的な感情などによって、心が捉われていないわけです。

逆に、ひとたび心がそうした問題に捉われてしまうと、私たちはそのことにいつまでも巻き込まれた状態となったり、グルグルと同じところに思考を固定されてしまうのです。

しかし、そんな状態を歓迎する人など誰もいないはずないのに、なぜそのようなやっかいな心の状態というのはやってくるのでしょうか?

例えば、誰かにひどくイヤなことを言われたとしましょう。そうすると、そのことに対してさまざまな判断が心の中でなされ、それが付加された状態で頭の上に置かれるのです。

そう、まさに頭の上にどしっと置かれる感じになるのです。私たちは、仮にまぶたの裏に小さな出来物ができただけでも気になって仕方なくなりますね。

それと同じように、頭の上に固定されたその事柄が気になって仕方なくなってしまうのです。それが、いわゆる捉われている状態なわけです。

ではなぜ、頭の上なのでしょう?足元に置かれるくらいであれば、それほど気にせずともいられるはずなのに…。

頭の上というのは、そのことが対処するのに強敵であって、それを「何とかしなければ」自分がやられてしまうということを示していると言えます。

ゴキブリを異常なほど恐れる人が、ひとたび部屋にそれを発見したときに、じ~っと見合った状態で何時間も固まってしまうという情況があると聞きます。

それと同じことが起きていると思えばいいのです。目を離せないのは、相手のことを危険きわまりないと感じているからです。これは、手を出さずとも闘っていることを意味します。

頭の上に固定されている問題を「何とかしよう」とすることをやめるのです。そして、どんな反応が心に起ころうとただそれを見るだけにするのです。

ひたすらそれを見ているうちに、それは次第に頭の上から少しずつ下がってきて、気が付いたときには足元の辺りにまで下りてきてくれます。

もうそうなったら、そのことに対して捉われていた心の状態から抜け出すことができるはずです。そもそも、頭の上の問題を作ったのはあなた自身なのです。

あなたが主人であり、その問題に対する思考が従者なのですから、従者が主人の上に君臨するのは間違っています。そんなものに力を与えていてはなりません。

もしも、今あなたの頭の上にそうしたものがあるなら、すぐにでも試してみて下さい。あなたが作った思考にあなたが負けるはずはありません。

真正面から見つめてあげれば、それは必ずあなたの足元にひれ伏すことになるのですから。

すべては与えられ続けている

言葉というものは、どれほどの明晰性があったとしても、それは所詮真理を指し示す程度であって、その言葉から得られるものは心の中の観念でしかありません。

そうしたことを念頭において読んでいただけたらいいなと思いながら、今日のブログを書こうと思います。

日頃、与えることが与え返されることになるということが、この宇宙の真実だと思って生活しているのですが、それを一旦脇に置いて、また違う表現をすることもできます。

それは、あらゆる瞬間に与えられている、与えられ続けているということ。自分が与えていると思う瞬間であっても、それは与えられているのだという認識をすることができます。

以前にもブログかミクシーの日記に書いたことなのですが、ある日クルマを運転してるときに、目の前に繰り広げられる景色やその他のあらゆる現象が自分へのプレゼントなのだという感覚になったことがありました。

その瞬間、自分がクルマを運転しているということすら、自分の独自の行為ではないという感覚になったんですね。

確かに運転するということが起きているというのは分かるのですが、私が主体者として何かをやっているのではなくて、そうした行為がプレゼントとして起きているという感覚です。

何から何まで与えられ続けているのです。それなのに、私たちは勝手にこれは与えられた、これは奪われたなどと自分の観念の中で判別しているのです。

どんな自分の行為であろうと、どんなことが自分の身に起きようと、それはすべて与えられているものだということです。

もしも、この感覚が続くなら、一分一秒ごとに感謝せずにはいられなくなりますね。それは何と言う至福であることかと思います。

そしてそのとき、与えられていると感じるこの私が希薄になっていきます。起きている事実をただ見守っている何かであるという感覚になるのかもしれません。

それを敢えて表現すれば、感謝している私がそこにいるというよりも、私が感謝自体としてあるというような感覚です。

観念による脚色

奇跡のコースでは、この世界はすべて幻想であると説いていますが、そのことと、今日これから書くことはちょっと違うことです。

そのことを一旦脇に置いておいて、つまり幻想だろうがなかろうが、実際に私たちが見ているこの世界というものは、それをあるがままには見ていないということは明らかです。

なぜなら、私たちは何かを見たときに、それに対する自分の心の反応を作り上げて、それを一緒にその対象物とくっつけて見ているからです。

例をあげれば、私の部屋から富士山の姿が見えるのですが、それはとても雄大であって、きっと近くに行ったらとてつもなく大きいのだろうと思いますね。

そして、この季節になるとあっという間に雪によって白く綺麗に色づけされて、何とも美しい姿として目に映ります。

このように、ただ一つの形を見ただけなのに、そこには富士山という名前から始まって、様々な印象が一緒になったものを見ているのです。

これは決して見えているそのものだけを見ているということにはなりませんね。そのものとしての対象物よりも、何倍もの情報を作り上げて、一緒にして見ているのです。

こうしたことは、ありとあらゆることに当てはまります。それが観念と言われるものです。つまり、私たちは自分の心の中にある観念を見ているとさえ言えるのです。

観念はあくまでも心の中で作った想像上のものであり、実物とは全く異なるものです。もっと無機質で、実在しないものである、例えば数字の「1」についても同じです。

「1」に対する観念が心の中に出来上がっているために、個人個人それを心に描いてもらったときには、それぞれに違うイメージが涌いてくるはずです。

心の中は、観念でいっぱいです。それは、過去の体験に基づく膨大な量の印象を使って作り上げられたものであり、何を見るとしてもその観念によって激しく脚色させられてしまうのです。

だからこそ、この世界は一つだけしかないのに、私たちは一人ひとりが独自の世界を見ているということになるのです。

もしも、何かを見た時にその印象を心の中に残さずに、その対象の付属物だとしてしまうことができれば、いつもあるがままを見ることができるはずです。

私たちの本性である、真の自己はそうしたものの見方をするのだろうと思うのです。それには、観念というものがないのですから。

T30-1 「決心するための規則」への考察

久しぶりに、奇跡のコースのテキスト、第三十章第一節「決心するための規則」を読む機会がありました。正直、最近この部分を読んでいませんでしたね。

コースを読み始めた頃に感じていた事と比べて、今日は随分と違った印象を受けたのでそれについて書いて見ようと思います。

簡単に言ってしまえば、毎日どんな些細な選択においても、エゴを選ぶ代わりに聖霊の答えを選ぶことを習慣化しなさいという教えですね。

かつては、聖霊に任せておけば、あらゆる場面において最適な答えをいつでも教えてもらえるというような理解をしていたように覚えています。

実際、コースのワークショップなどを開催されている有名な方においても、聖霊は常にあなたにとって最善の答えを授けてくれるとはっきりおっしゃっています。

私は今このことにとても大きな違和感を感じずにいられません。なぜなら、その教えを真に受けた人は、きっとその最善の答えをもらうために聖霊に選択を委ねようとするだろうと思うからです。

もしもそうなってしまったら、この節の本当の意味が損なわれてしまうかもしれないと感じます。自分にとっての最善の答えをもらうために、聖霊の答えを選択するのではないからです。

そうではなく、ここでの大きな目的とは聖霊への明け渡しの練習なのです。したがって、聖霊がどんな答えをくれるのかが問題なのではなくて、エゴの選択を使わないということが大事なのです。

もう一度言うと、聖霊の答えが最善なのではなくて、私(エゴ)の選択を使わないということこそが、最善なのだということの理解が必要なのです。

本当は、明け渡すターゲットは誰でも良くて、目の前にいる人でもいいわけです。勿論、そこには深い信頼が絶対的に必要ではありますが…。

テキストの中に出てくる「あなた」という単語にも違和感を覚えましたが、「あなた」とはこのテキストを読んでそれを実践しようとする私のことであり、それはエゴなのです。

つまり、私の意志というものをなるべく使わないようにして、聖霊に明け渡す訓練をするということがこの節の目標だということです。

「あなた」というのを、エゴか聖霊を選択する意識だと解釈しても問題はないと思いますが、現実的にはそんな都合のいい中立の意識などありません。

もう一つ、思い出したことがあります。私が以前目標としていた、自分の知覚を正していくということについても、大きな誤りがあると感じるようになりました。

以前は、日々のあらゆる選択を聖霊に委ねるということによって、次第に聖霊の知覚の仕方に変えていく、自分の知覚を正していくということに主眼を置いていたと思います。

こうしたことは、自分を改善していこうとする思いがそこにあるため、いつまでたっても私から抜け出すことができなくなります。

私とは間違いなくエゴであり、それを改善しようとすること自体がエゴの策略であることを見抜くことです。私がエゴではなくなるということは決してないと肝に銘じることです。

私の人生

みなさんにとって、一番大切なものとは何でしょうか?それは何と言っても自分の人生であると言えるのではないでしょうか?

なぜなら、自分の人生がなければ、何が大切かなどという質問にさえ意味がなくなってしまうからです。生きて人生を活動しているからこそ、そこに大切なものがあると思えるわけです。

もしかしたら、自分の人生には大切なものなんて何もないよ、どうせくだらない人生なんだからと投げやりに言う人もいるかもしれません。

しかし、人生そのものに価値があるとかないとかいうのは間違っています。厳密には、その人生でどんな価値あることが起きたのかということですから。

生まれてまもなく物心がついたときから、つまり気が付いたときにはもうすでに自分の人生が開始されていたわけです。

その中でいいことや悪いこと、くだらないことやすばらしいことなどが起きたり起きなかったりして、我々はそれに一喜一憂してきたということです。

勿論その人生で何が起きようと、その中心人物はこの私です。私がいない私の人生というものはナンセンスでしかありません。

私の家族、私の学歴、私の友人関係、私の部屋、私の貯蓄、私の会社、私の経験(体験)、私の成果、すべてが私にまつわる出来事で埋め尽くされています。

ところで、このブログで何度もお伝えしている通り、この私を探求していくとそれが単なる一つの想念に過ぎないということが分かります。

つまり、上記した私の○○を根こそぎ意味のないものにしてしまうように感じますが、私の人生というもの自体が想念に過ぎないのです。

それは架空のものであって、そこにはどんな実体もありません。すべての私の○○も同じように実在ではないということです。私がずっと守ろうとしてきた、私の時間、私の空間も…。

なんたる無駄をしてきたことでしょう。私の人生があると思っていたために、その架空のものにものすごいエネルギーを費やして、投資ししてきたのですから。

しかし、ないものにいくら投資をしても、虚しいばかりです。なぜなら、人生に中心人物はいなかったのですから。

主役のいない人生を人生と呼ぼうが何と呼ぼうが構いませんが、それはただ現象が起きていくだけのものだということです。

本当のあなたは、そんな人生の主役ではなくて、この世界のありとあらゆるものの源泉なのです。無限にあるすべての生の源なのです。

個人としてのあなたが生を生きているのではなく、生があなたを生きているということです。いつもその全体性としての生の源に意識を向け続けることです。

虫の不思議

最近はほとんどテレビを観なくなってしまったのですが、過去にドキュメンタリー的な番組の中で、動物などの生態を見せてくれるものがあって印象に残っています。

その手の番組は、観るとはなしに観ているうちに、ぐいぐい引き込まれていってしまうのです。作り物ではないだけに、興味をそそられるのでしょう。

特に昆虫などの小さな虫たちの生態を至近距離で捉えた映像などは、なかなか面白いですね。子供の頃からそうした映像を観ていて、いつも不思議に思っていたことがあります。

それは、虫たちは誰に教わるわけでもないのに、彼ら特有の生活を営んでいるわけですね。例えば、フンころがしは、どうしたわけかどれも同じように後足で上手にフンを転がしていきます。

あれほどの芸当がなぜ生まれながらに備わっていて、しかも上手にやりこなすことが出来るのかと思うと、自然の神秘を感じずにいられません。

今思い出したのですが、子供のころにみた映像で印象深かったのは、かまきりのオスとメスが交尾を終えて、やれやれ子孫を残す作業を無事やり遂げたと思った矢先、メスがオスを頭から食べ出すんです。

オスは黙ってメスに自分を食べさすんですね。そんなのってあるんだろうかと、残酷なことのように思えて、でもそれがメスの栄養源となって無事に卵を産むことに繋がるんですね。

彼らはなぜ、人間のように自意識があるわけでもないはずなのに、そうしたことを正確にやり遂げることができるのでしょうか?虫たちの行動を見ていると、その必死さが伝わってくるようでとてもいじらしくなります。

こうした疑問とは、我々人間は自分が理性を持って様々な行為をしているという前提に立っているからこそ出るものです。

つまり、人間には理性や意志があって、それが自分をコントロールして行動するのに、虫には理性や意志がないのに、なぜ緻密な行為をやってのけるのかが不思議だということです。

実は、虫も人間も全く違いはないといったら驚くでしょうか?私たちだけが、「私」という想念を持ったがために、自分の意志で行為をしていると錯覚しているということです。

本当は、「私」がいなくても虫と同じように何でも行動できるということです。この宇宙で起きていることは、すべからく大いなる意識の思い通りに起きるということです。

残念ですが、私たち人間もその駒の一部でしかありません。しかし、本当の自分とは、「私」として自覚しているものではなく、その大いなる意識の方なのです。

「私」は想像上のものでしかないと分かれば、誰かと比較して落ち込んだり、罪悪感にさいなまれたりすることなどありえないはずです。

あなたがどんなに頑張っても、また頑張らなくても、すべては純粋な意識である真の自己から流れ出てくる現象だと気づければ、すべての問題は問題ではなくなるでしょうね。