惨めという思考を理解する

あなたは自分の惨めさとどう付き合っていますか?いやいや自分は惨めなんかじゃないと思っているなら、それは相当おめでたい。

惨めさを持っていない人などいないのです。なぜなら、人は期待値というものを持って生活しているからです。

惨めさというのは、期待値に対して現実が低いときに、その落差によって作り出されるものだからです。

落差が大きければ大きいほど、惨めさも大きくなるのです。私はこのことをセラピストになってから理解しました。

そしてセラピーというのは、幼い頃から隠してきた自分の惨めさに気づくことだということも分かったのです。

人生というのは、その惨めな自分を隠して、自分は惨めなんかじゃないということを証明しようとする努力の連続に過ぎません。

意識が内側に向かわずに外へ外へと向いてしまうのも、これが理由なのです。期待値に対して起きた現実がその期待を裏切ったという事実と、だから自分は惨めだという思いとは違うものです。

つまり惨めさというのは思考によってでっち上げられた架空のもの。けれども、それによって悲しみが作られてしまうのは事実です。

親に関心を持ってもらいたいという期待値に対して、現実はそうではなかったなら、子供はひどく惨めだと思うわけです。その惨めさがあたかも事実であると錯覚するのです。

あらゆる惨めさはすべて思い込みだという深い理解に至れば、惨めさから逃げる必要もなくなり、惨めじゃないという証明も不要になるのです。

その時初めて、ありのままの自分を丸ごと受け止めることができるようになるのだと思いますね。

否定せずに肯定する技術

昨年暮れのM1グランプリに初出場で決勝に進出した、「ぺこぱ」の漫才がとても秀逸で一人で大笑いしていました。

惜しくも優勝は逃したのですが、個人的には彼らに優勝させてあげたかった。彼らの新しいボケのカタチ、「のり突っ込まない」というボケが素晴らしい。

相方にどんなことを突っ込まれたところで、それを100%の肯定で受け止めるというほとんど天才的な返しなのです。

たとえば、相方の動作が少しスベってしまったときに、「いやスベったみたいな空気になってるけど、空気がなければ俺たちは生きていけない!」みたいな感じ。

タクシーを待っていて、タクシー役の相方に身体ごとぶつけられて、「イテ〜な、どこ見て運転してんだよって言えてる時点で無事でよかった!」とか。

「もう誰かのせいにするのはやめよう!」的なことも言っていました。お笑いなのに、的を射ていて素晴らしいのです。

一般的には、相手の不備を指摘してそれを否定することで場を盛り上げるのですが、否定する代わりにとにかく肯定に持ち込むのです。

自我というのは、残念ながら肯定するよりも否定することに興味があるのです。それは、ゴシップニュースなどを見ていれば分かります。

誰かが結婚したといっためでたいことよりも、不倫したとか不正を犯したといったニュースの方が長持ちするのですから。

他人の幸せよりも不幸話しの方が都合がいいのです。それが防衛から来ているのは明らかです。

もしも私たちがとにかく否定をする代わりに肯定するなら、そしてそれをお笑いに持っていけるなら、世界から争い事が消えていくような気がしますね。

マインドの闇に光を当てる

人間は生まれながらの素の自分のままで生きられたら、それが一番居心地がいいのであって、そこから遠のけばそれだけ生きづらくなってしまいます。

たとえば親が強烈なコントローラーであり、いたいけな子供が恐怖のあまりにその親に盲目的に従ってしまえば、その子の未来はどうなるのか?

親にとって都合のいい自分になろうと頑張ることによって、子供はオリジナルの自分から遠ざかることになるのです。

その方法は至ってシンプル。親にとって都合の悪い自分、たとえば怒る自分とか、言いたいことを言う自分、反抗的な自分、そういったマインドの部分を抑圧してしまうのです。

そうやって残ったマインドの部分によって、親が満足しそうな自分を作ることになるのです。素の自分とは程遠い自分となるわけです。

ところが、どれだけ努力したところで親が満足することはありません。その上、抑圧されたマインドの部分は、あらゆる手段を使って人生を邪魔してきます。

もしもあなたが自分の人生はうまくいかないと感じているなら、気づかずに抑圧してきてしまったマインドの部分があると見た方がいいのです。

そしてどんな手段を使ってでも、その抑圧を解放してあげる必要があります。癒しを進めることによって、人は少しずつ抑圧を減らしていくことができます。

抑圧されてきた部分が顔を出すたびに、そんな自分がいたのかとびっくりするかもしれませんが、その時は喜ぶべきでしょうね。

抑圧された闇の部分のすべてに光が当たる時、人は闇から解放されてその光によって自我も溶けていくのです。

生に身を委ねる

最近 YouTube で可愛いペットちゃんたちの動画を観ることがあります。ペットといっても主にワンチャンとネコちゃんですが。

先日観た動画が印象的だったのですが、それは保健所から貰われてきた生後一ヶ月くらいの子犬が、恐怖に怯えてケージから出てこないのです。

丸い小さな身体で、身を縮めて震えていて、餌をやっても見向きもしない。一体これまでどんな目に遭ったのだろうと思って、心が痛い。

動画の投稿者は、とても辛抱強く毎日毎日少しずつ距離を縮めていって、ようやく餌を食べるようになるのです。

人間が近くにいると怖がって食べないので、餌を置いて遠くから見るというのを繰り返すのです。

そんなことをずっとやり続けて、ケージから出てくることができたときの喜びは想像に難くありません。

途中を端折りますが、結局最後にはその子犬が飼い主さんに心を開くようになって、朝になるとベッドの上に乗っかってきて顔を舐めて起こす姿がありました。

その姿を見て、それって人間と同じなんじゃないかって思ったのです。私たち人間もずっと長い間、生に対して心を開くことなく警戒しながら過ごしているのです。

それはもう、無数の生に渡って長いこと続けてきたのです。もしもあの子犬のように心を開いて、生に身を委ねることができたならどれほど豊かな毎日になるのか。

生を信頼してひっくり返ってお腹を撫でててもらうことができたら、きっともう二度と生まれ変わってくる必要もなくなってしまうのでしょうね。

信用の共有に気づく

あの人は信頼できる、という表現は厳密には間違っているのです。それはなぜかというと、あの人は信頼に足る人物だという意味合いが含まれているからです。

つまり、あの人のこれまでの言動を見てきた結果として信頼できると結論付けたということ。これは信頼ではなく、信用できるということを言っているに過ぎません。

信用するのは、何らかのそれなりの理由があってのこと。だからその人がもはや信用できないような言動をしたなら、即刻信用できないことになるのです。

これは信頼とは全く異なるものなのだということは、これまで何度となくこのブログでお伝えしてきました。信頼にはどんな理由も不要なのです。

ところで今日お伝えしたいメインテーマは、信頼と信用は違うということだけではありません。

私たちが生きているこの社会のシステムというのは、実は「信用」が根っこにあるということです。その信用をみんなで共有することで成り立っているのです。

そのことに気づかなければ、信用と事実を間違えてしまうことになります。そもそも経済の大元を担っているお金には価値があるというのも信用の共有なのです。

信用することをやめてしまえば、紙幣はただの紙切れだし、硬貨もそれに見合う価値などありません。

ですがみんなで貨幣の価値を信じ合うことで、貨幣経済が成立して便利な社会が出来上がったのです。

自我が作られていくときに、こうした信用の共有をたたきこまれたわけです。それが身近過ぎて、事実として理解しているのですね。

所有という概念も信用の共有によって成り立っています。あなたが長年の夢だったマイホームを買ったとしたら、それは自分の所有物だと思うはずです。

けれども、それは事実ではありません。この家は私のものだというとき、この家は他の誰のものでもないということを同時に主張しているのです。

だからそれも含めてすべての人がその信用を共有して初めて、所有が担保されるのです。所有というのは決して事実ではないということです。

もしもこの世界にあなた一人しか存在しなかったなら、あなたがその家を所有していると主張しても、そこには何の意味もないはずです。

あなたが日本人だというのだって、事実ではありません。なぜなら国籍というもの自体が信用の共有によるものだからです。

この世界に一人しかいないとしたときに、意味が失せてしまうものはすべて互いの信用の共有によるものであり、事実なんかじゃないと気づくこと。

なんでこんなことを言うのかというと、信用の共有が自我をしっかりと下支えしていることに気づくと、それだけで自我は足元が揺らぎ始めます。

自我の足場である信用の共有に気づくなら、自我と自我が作った社会の脆さが露呈してきます。

この時に、社会の中にいて社会に染まらない生き方ができるようになるのです。社会にすがるのも自我だし、社会を忌み嫌って離れようとするのも自我なのです。

今日から、ただ信用し合っているだけだったと気づきながら生きてみて下さい。自我の繁栄のカラクリが分かって、きっと生きやすくなるはずです。

思考停止が瞑想ではない

瞑想とは、ただ思考を止めることだと思っている人がいますが、実はそうではありません。

思考が停止していても無意識の状態では瞑想とは言えません。瞑想とは、意識が覚醒している状態のことだからです。

自分の本質が意識であること、ただ観るものであるということを思い出せたら、その瞬間あらゆる緊張が取れていくはず。

自分はこの身体ではないということの解放感、自分は心(自我)でもないということの無類の平穏。

私たちが苦しむのを誰かのせいにしたり、社会のせいにするのはお門違いです。苦悩の唯一の原因は身体やマインドとの自己同化にあるからです。

じゃあ何で癒しを目的としたセラピーなんかやってんの?という声が聞こえてきそうです。確かに…。

それは例えて言えば、急がば回れなのです。自分に意識を向け続けて下さいと言ったところで、それを実践し続けられる人がどれほどいるかってことです。

あまりにも長い間、マインドがこんがらがってしまっている時、強く自我に巻き込まれてしまっている状態では、その立ち位置から始める必要があるのです。

意識的でい続けるためには、自我のパワーをある程度は鎮めておく必要があるということです。でなければ、瞑想もやる気が起きないはずなのです。

意識的であろうとすることと癒しの両方に効果的なのは、自分の内側にはどんな自分がいるのか、都合が良くても悪くてもそれを見てあげる習慣をつけること。

マインドのあらゆる部分を見てあげることができたなら、自動的に癒しは進むし気がつけば意識的になっているでしょうね。

意識的であり続けると…

ようやくお正月が終わろうとしています。イベント事が苦手な私としては、なるべく早めに変わったことのない普段の生活に戻りたいのです。

で、遅ればせながらですが、今年の抱負としてはこれまでよりももっと強烈に「意識的である」ことに焦点を絞って生活していきたいと思っています。

意識的であり続けることが、このブログでお伝えしたいことの全てと言っても過言ではないくらい、最も重要なことなのです。

それがなぜなのかをもう一度復習しておきたいと思います。意識的であるということの意味は、明確な自覚がある状態のことです。

意識的でないとき、私たちは無意識状態になっているのです。寝ている間にみる夢は無意識状態だというのは理解できると思います。

夢の中の自分は、いつだって無自覚だからです。ところが、無自覚なのは夢の中だけではなくて、目覚めている普段の生活でも概ねそうなのです。

目の前の人と話しをしているとき、そのことを自覚しているかというと非常にあやふやなのです。食事しているとき、食事していることに意識を向け続けているか、よくよく思い返してみれば分かると思います。

私たちはすぐに無意識状態へと移ろってしまうのです。ではなぜ無意識が問題なのかというと、その瞬間一番力を持っているマインドの部分に乗っ取られてしまうからです。

たとえばあなたが激怒するとしたら、それは完全に無意識のうちに起きるのです。意識的に激怒することは不可能だからです。

つまり激怒するというのは、怒りを持っているマインドの部分に乗っ取られてしまっている状態なのです。

その時充分に意識的であったなら、怒りはあっても激怒はできないのです。意識的であるなら、どんなマインドの部分にも乗っ取られずに済むということ。

そして意識的であることだけが、本当の意味で私たちを変えてくれるのです。努力の力で変わるのはほんの表層の部分だけだと知ることです。

意識(見ること)は直接的にはどんな手立てもしてくれませんが、いずれは変えようとする意志の力など全く届かない未知の力によって変わっていくことができるのです。

また意識的であるとき、思考は自然と不活性の状態へと推移していきます。思考を止めようとするのではなく、意識的でありさえすればいずれは思考は緩んでくるのです。

そして最終的には、意識的であることがずっと続くようになったとき、自我は根負けしてあなたの本性にその場を譲ることになるのですね。

着けてる仮面に気づく

一般的には女性はお化粧をしている人が多いかもしれませんが、スッピンで過ごしている人もいますね。

逆に最近は男性でもメイクをしている人がいても、あまり違和感を感じることもなくなってきたかもしれません。

そうした男女差とは無関係に、私たち人間は誰もがそれなりの仮面を被っているのです。しかも仮面は一つではなく、幾つも取っ替え引っ替えしているのが普通です。

その仮面というのは、相手によって無意識に変えるのです。家族に対するもの、友人に対するもの、同僚と一緒にいるときの仮面。

そんなふうに、自動的に環境や相手が変わるたびに、どの仮面を着けるかが決まるのです。その仮面の目的は防衛にあります。

だから癒しというのは、その仮面を一枚ずつ外していくことなのです。といっても、外部から強引に引き剥がそうとしても、仮面はとれません。

なぜなら本人としては、仮面を着けるのは言わば命がけだからです。気がついたら、仮面をつけずにいられるようになるのが理想です。

そのためには、北風と太陽の話しのように自らコートを脱ぎたくなるように工夫することが肝要ですね。

更にその時そのとき、自分がどんな仮面を着けているのかに気づけるようになることが、もっともっと大切なのです。

気づくこと、つまり意識的であることができれば、仮面は自然と不要になっていくものです。

なぜ?からの解放

自我というのは謎解きが大好きなのです。科学者は宇宙の謎を解明しようとして、絶えず研究と発見を繰り返してきています。

無邪気な子供は大抵、「どうして?」を連発して大人を困らせるのです。なぜ?をそのままにしておきたくないという、強い衝動を持っているのです。

分からないことが分かると、なぜかスッキリした気持ちになれるのを知らない人はいないでしょう。

自我というよりも思考の本性だと言った方が正確かもしれませんね。思考は物事をあるがままにしておくのが苦手で、評価したり判断したり解明したがるのです。

それは欲望の一つなのです。それも強烈な欲望。その欲望は思考自体が思考を活躍させたいというところが来るのです。

だから一つの思考は別の思考を呼び込むプロです。そうやって次から次へと思考を連鎖させて、思考が途絶えないようにするのです。

そういった思考の習性から解放されるためには、思考を見つめることが重要となります。見るというのは意識するということ。

意識の覚醒を保っていられたら、思考はゆっくりと沈静化していってくれます。そうなって初めて、謎解きからも解放されるでしょう。

なぜ?をそのままにしておくのではなく、なぜ?が思考もろとも消えてしまうのです。そして内側は静かな至福に包まれるのですね。

紹介特典制度

先日もこのブログでお伝えしましたが、以下のような紹介制度を今年から始めることにしました。

これまではセッションでお会い出来る方というのは、そのようなご縁のある方だという思いがあったので、殊更セラピーを宣伝することはありませんでした。

けれども、先が見える年齢になってきたということもあってか、お会いできるチャンスは広げていく方がいいのだろうという気持ちも出てきたのです。

私らしくない気もするのですが、少しだけでも多くの人にセラピーのチャンスがやってくればいいなと思います。

同時に私自身もより多くの人々とセッションができるとありがたいと思っています。

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『紹介して下さった方に、以下のような特典をご用意しました。

セッション一回分の費用を無料にさせていただきます。

条件:

・特典資格があるのはセッションを一回以上受けたことがあるクライアントさんであること。

・紹介された方(被紹介者)は、ルシッドのセッションを受けたことがない方。

・有効期間は、被紹介者のセッション実施から一ヶ月以内を目安とします。

・本特典制度は何度でも使っていただけます。』

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