取引から足を洗う

私たちが日頃馴染んでいる文化というのは、その根底に取引によって支えられているという事実があります。

その理由は、自我が取引を好むからだと私は見ています。その昔、まだ社会が未熟だった頃は物々交換によって、生活をしていたのです。

身近なところでは、お小遣いあげるから肩叩いてちょうだいなんて言われてる子供を見ることがあります。

取引ですから、何かを差し出してその代わりに何かを貰うということですね。一般的な社会人は、労働してその対価を受け取るのです。

何だかそれがつまらないと感じてしまうのは私だけでしょうか?どうも若い頃から、給料をもらって喜んだ試しがないのです。

自分が与えた労働はこの程度というものに見合った対価を貰うだけなので、当然な気がして嬉しくないというのが正直なところ。

もちろん、働く場所がなくて困っている人がいたら、その人にとっては働いて対価をもらえるだけでもありがたいと感じるでしょうね。

とはいうものの、私としては想定を超えた対価をもらえるなら、それなりに嬉しいはずなのですが、普通はそんなことはありません。

物々交換の頃はシンプルで良かったと思うのですが、現代においては取引というのは大変な思いをした分だけの対価をもらうというようになってしまっている節があります。

こんなことを言ってはどうかと思われるかもしれませんが、私にとっては労働の対価ではなく、拾う、当たる、プレゼントされる、などが嬉しいのです。

何だか得した感じがするのです。実はこれ、現実の世界でも実現できるのです。それは、あなたがやりたくてうずうずしていることをするだけ。

それが結果として誰かに認められたら、いただいたモノやお金は対価ではなく、プレゼントということになるからです。

これはもう取引ではありませんね。あなたが自分に正直に生きていれば、取引などせずに生きていくことができるということです。

自我はその可能性をはなから否定しているので、現実もそうなってしまうのです。取引をせずに生きるにはどうしたらいいかを、一度真剣に考えてみるといいと思いますね。