超然としている自分

私たちはいつも自分を感じながら生きているのですが、その中に物事に捉われずに、常に超然としている自分がいるのを発見することは素晴らしいことです。

その感覚をより明確にしたくて、何か自分の内面に起きるたびにそれを捜す習慣が付いてきました。

たとえば、何だか気分が悪いなと感じたときに、その気分の悪さに全く影響されずにいる自分がいるのを感じるようにするのです。

100℃のサウナに入っていて、もう暑くて出たいなと思ったときに、その暑さから全く解放されている自分を見つけるようにするのです。

超然とするというのは単に擬人化した表現でしかありません。なぜなら、実際にはそれは人物などではないからです。

ここはどんな言葉を駆使しても正確に表現することはできませんが、以前よく使っていた言葉を用いると…。

映画を映し出すスクリーンのようなもの。映像との距離はゼロですが、どんな映像が繰り出されようが、スクリーンは全くその影響を受けないでいられます。

それと同じこと。この世界を3次元の映像だと考えると、それを映し出しているスクリーンこそが、自分の本質なのだろうと。

スクリーンでも背景でもなんでも構いません。その感覚を何かあるたびに捜す練習をするといいと思います。

最終的には、自我としての自分が死にゆく時にも、超然とそれを見届けることができるのでしょうね。