昨日の続きです。
私たちは、不思議なものには大抵の場合に興味を持つものです。何かにびっくりさせられたり、驚きを禁じえない体験をしたときには、それが何だったのか知りたいと思うのです。
つまり、不思議さというものは自分の理解を超えたものに対して感じるわけですが、それを理解したいという欲求が発生するということです。
その欲望とは、自分が理解できないものをそのままにしておくことは、危険であるという発想から由来したものです。
危険を回避するために、分からないことを分かるようになりたいという欲求を持つということです。これは、単に自己防衛からきているとも言えます。
それこそが、まさしくエゴの欲望に他なりません。けれども、私たちは不思議なものに対して、それを解明したいというだけではなく、シンプルに惹かれるという側面も持ち合わせています。
この、不思議さに単純に惹かれるというのは、きっとエゴを越えるものに対する心地よさなのかもしれませんし、本当の自己を思い出したいという隠された欲望なのかもしれません。
不思議なものに対するこの二つの衝動は、そういう意味で互いに相反するものであると言えるのです。一方はエゴの防衛であり、もう一方は真実への渇望だからです。
この世界では、理解できないことを理解できるように学んでいくことは、必要なことであり、何ら問題ありません。
しかし、もう一方で自分の理解(思考)を越えたところにこそ、真実が隠されているということに気づくことは、より一層大切なことなのです。
それこそが、自己の不思議さに降参するということです。解決しようとするエゴ(思考)の誘いに振り回されないでいるということです。
それは、エゴ(思考)が自分の限界を悟り、真実にひれ伏すということです。そこにこそ、この世界のものではない、真の安らぎがあるのです。