人生の目標というものが、明確になっている人はいいのですが、そうではないという人も沢山いるのではないでしょうか?
何を隠そう、私自身も何の目的も目標もなくただ淡々と生きてきたという思いが強いです。淡々とという表現を使えば聞こえはいいですが、悶々とという意味合いも多分に含まれていると思います。
それが生まれ持った性癖なのか、あるいは後天的な何かの影響によるものなのか、はたまた教育のせいなのか、あるいは別の何かの原因があるのかは定かではありません。
いずれにしても、あまりリアルに自分が生きているという生き生きとした感覚というものを持ってはいないということだけは確かです。
そうなると、何かしなくてはいけないのではないか、何もせずにボーっと過ごしている自分は人としてどうなのか、といった疑惑のようなものが出てきます。
だからといって、何か無理やりにでも目標のようなものをこしらせて、それを目指して頑張ったところで、すぐに当初のやる気が消えていってしまうのですから、仕方ありません。
こんなことを、何度も繰り返してきた結果、今となってはもう悪あがきはしないというスタンスで固まってきたように思います。
こういう人生があってもいいのだというような、ある種の達観したような感覚になってきたように感じています。これも、年齢というものの影響もあるんでしょうか。
そして、最近では、これも自分という人物の一つの特徴であって、それをどうにかしようなどと思う必要すらないのかもしれないと思えるようになりました。
人物としての自分の改造計画などは、きっぱりと放棄したほうがいいのです。たかだか80年くらいの人生の中で、自分をよりよいものに変えることなど不可能なことだと悟ることです。
その代わりに、本当の自分、人物でも人でもない究極の自己へと意識を向けることによって、一瞬にしてあらゆることを飛び越えることができます。
これは、とても小気味いいことなのです。あらゆる不都合が吹っ飛んでしまいます。悩ましい夢から覚めたときと同じような感覚かもしれません。
この世界で起こるありとあらゆることを貫いて静寂でいる自己に、心ゆくまで寛ぐことができることは、深い静かな喜びなのですね。