個別性とは思考であり、全体性とは注意である

このブログでも、もう何度も繰り返し書いていることですが、私たちの正体とは思考です。思考が、「私はここにいる」と解説しているのです。

それを自覚できるのだから、私とは自律的な存在であるということになるのです。自律的な存在とは、個別性のことです。

つまり、思考は全体性を真に認識することができません。思考の全体性に対する認識とは、個の集合としての全体という概念に限定されています。

けれども、真の全体性とは個別性の寄せ集めではありません。唯一であるもの、「不二」であるものを分離も分解もすることはできないのですから。

これは言葉でとりあえず表現することはできるとしても、本当のところ個別性である思考の限界を超えたものです。

個別性がどれほど改善され、どんなに進化したところで全体性に到達することはできません。一方は真実であり、もう一方は真実の影のようなものだからです。

私たちは、どれほど頑張ったところで思考から逃れることはできません。なぜなら、繰り返しになりますが、私たちが思考だからです。

私が私をやめることなどできないのですから。それは不可能なことです。けれども、その思考を静かにさせるとき、初めにその不可能だとの解説も思考であると分かります。

その不可能さを放っておいて、私という思考の根元をどこまでも見ようとしているうちに、それが見つけられないものだというのがやってきます。

個別性は見つめることで、消えてしまうだけでなく、突然それは全体性としての姿を顕わすようになるのです。

全体性とは気づきであり、注意です。何かに気づくのでも、何かに注意するのでもなく、気づきそのものであり、注意そのものであるということです。

それこそが、思考という個別性の源としての本当の私たちの姿なのですね。それは、至福というよりも静寂であり、不二である全体性なのです。