すべては自分の反応次第

by osho

誰かが怒っている。それを怒りと感ずるのは、自分がそれによってかき乱されているからだ。もし自分が乱されていないなら、それを怒りと感じることはあり得ない。

その質が変わるのは、あなたの解釈が変わるからだ。こちらが違っているからだ。誰かがあなたを憎む。それを憎しみと感ずるのは、こちらがかき乱されるからだ。

自分が乱されておらず、しかも自分を憎む者があったとして、それを憎しみと呼び得るだろうか。どうしてそれを憎しみと呼び得よう。

あなたは慈愛さえ感ずるかも知れない。哀れみを感ずるかも知れない。「いったい、この人はどうしたのだろう。なんて苦しそうなんだ。しかも、その必要はないのに、無益なのに」と感じることだろう。

あなたはその人がその状態から抜け出せるように、助けてさえあげるかも知れない。人が腹を立てる時には、自分の肉体を毒しているのだから。その人は病気なのだ。あなたは、彼がそこから抜け出せるように助けてあげるだろう。

癌を病む者がいたら、その人と喧嘩を始めたりはしない。その人を助け、世話し、病院に連れて行くだろう。

慈愛こそが必要だ。その人は助けを求めている。そして、この世がもう少し光明を得たなら、誰かが腹を立てた時にはいつでも、家族の全員と友達がその人をいたわるだろう。彼は治療を必要としている。

その人と喧嘩をしたり、腹を立てたりするのは馬鹿げたことだ。それはまったく馬鹿げた愚かなことだ。

相手が既に病んでいるのに、みんなでその人に対立して、どうやってその人を助けようと言うのかね。肉体的な病に対しては私たちは同情する。

心の病に対しては、同情しない。それは、肉体的に病む者がいても、私達はそれを自分に対する侮辱とは考えないからだ。

ところが誰かが心を病んでいる時には、私たちは、相手が心を病んでいるのは自分のせいだと考える。この態度は、自分もまた、病んでいるためにあるものだ。

ひとたび、自分が乱されてなければ、すべては一変する。自分の態度が変わるからだ。あなたは別人だ。全世界が違っている…。「もはや、昔のそれではない」。