忘れかけている正義感について

私たちの周りには、特別に正義感の強い人が時々いますね。曲がったことが大嫌い!という表現をすることもあるでしょう。

それは、昔からの日本人の心の底にある、共通の考え方かもしれません。けれども、この正義感というのは少々やっかいな代物でもあるのです。

「強気をくじき、弱きを助ける」というように、目を本人の外側に向けることに使われるのでしたらいいのですが、自分を守るために使ってしまうと問題となります。

正義の「正」の字は、正しいという意味ですから、正義感を自分は正しいという具合に都合よく変えてしまうということがあるのです。

そうなれば、正しさという心の鎧によって、自分を防衛するための大変便利なツールになってしまうのですが、そのことを本人は気づかないことが多いのです。

その一方で、自分を守るために正義感を使わないでいられるなら、誰かのために自分の命を与えることもできるかもしれません。

なぜなら、日本人が言う正義感とは、ルールを守るとか、人の道に外れないといった単なる倫理的正しさというよりも、誰かのために自分を投げ出すという態度があるからです。

自分の人生を自分を守るために使うのではなく、誰かのため、何かのために人生を捧げるという意味合いを多分に含んでいるのです。

こうした心の在りようというものは、生まれたときから誰もが本当は持っているものではないかと思うのです。

なぜなら、無邪気さを忘れていない幼い頃というのは、そうした感覚で生きていたように感じるからです。誰にも教えられてなどいないのにです。

けれども、その後の教育によって、そうした他人を思いやる気持ちを忘れていってしまう可能性は大いにあると思われます。

誰もが初めから持っていた、あの純粋な正義感をもう一度思い出すべきときが、やってきているように感じているのは私だけでしょうか。