神は誰の敵でも味方でもない

以前、あるキリスト教信者の方とお話しをしているときに、信者ではない人たちは可愛そうだというようなことを言っているのを聞いたことがありました。

なぜかというと、その人によれば、神は自分のことを信じる信者たちを特別に守るが、そうでない者は守らないからということでした。

つまり、神が人間的なえこひいきをすると固く信じているわけです。こうした考え方というのは、無宗教者や常識的な一般人からすれば到底考えられないことです。

けれども、それと似たような考えと言うのは、意外と広く蔓延しているのです。たとえば、良い行ないをすると天国に行けて、悪い人は地獄へ落ちるというものです。

私自身も幼い頃からそうした考えを持っていました。信じているというよりは、悪いことをしたら地獄に落ちるかもしれないから、いやだなという程度ですが…。

結局、神は審判を下すという普遍的な考え方が、心のどこかに根深くあるのですね。しかし、神には勿論思考などはないのですから、審判というものもありません。

百歩譲ってあるとしても、それは局所的なものの見かたではなく、全体的なものであるに違いありません。つまり、局所的に誰かの味方をしたり、誰かの敵になったりということはないのです。

私たち人間だけが、思考を使って物事を局所的に判断してしまうために、理不尽な思いや執着などによって苦悩することになるのです。

もしもかつての真珠湾攻撃のときに、海軍を代表する提督として高く評価されていた「山口多聞」の作戦通りに米国を叩いていたら、米軍は半年以上も太平洋では戦えなくなっていたらしいです。

もしかしたら、日本は戦争に負けてはいなかったかもしれませんし、多くの尊い日本人の命が助かったかもしれません。歴史は大きく変わっていたでしょうね。

けれども、一方では、そうなると米国の軍力をヨーロッパから太平洋に向けざるをなくなるため、ナチスドイツがヨーロッパを占拠してしまったかもしれません。

局所的に見るのではなくて、全体的に見れば何が良くて何が悪いとは言えなくなるわけです。これが神の視点なのでしょうね。真理というのは、あくまでも全体性なのです。