賢者はエゴから遠ざかろうとしない

誰であれ、その人の注意が人物としての自分に向くとき、人は苦悩を抱えることになります。

このとき気をつけなければいけないのは、表面的には意識が内側に向いていようが外側に向いていていようが同じだということです。

勿論内省しない人よりも、する人のほうが反省することができるので、それだけ思慮深くなるということは言えると思います。

けれども、どちらにしても心の奥底では、関心を寄せている対象が自分と言う人物であるなら、必ず苦悩することになるということです。

なぜなら、そのときには自動的に自己防衛のメカニズムが活性化してしまうからです。人物としての自分を何とかして守るということが、人生の目的となるからです。

思い通りに自己防衛できればいいですが、必ずしもそうはいきませんし、仮にそれができたとしても自己犠牲という非常に苦しい対価を支払うはめになってしまうのです。

一方で、その人の注意が人物としての自分を通り過ぎて、深い内奥に向かうなら、そのときは全体性の意識としての自己と繋がるのです。

そのような意識とは、一見すると下世話な現実世界から隔絶された意識であるかのように捉えがちですが、実はそうではありません。

真に目覚めた賢者などが、ヒマラヤの山奥でひっそりと暮らす代わりに、一般民衆の力となるために人々との関わりを持つことを見れば明らかです。

彼らは、エゴから遠ざかろうとするのではなく、かえって近づこうとさえするのです。それはエゴを恐れることがないからだし、自然と慈悲の心が働くからなのだと思います。

ということは、修行によって目覚めた意識を持とうなどと思わずとも、他人のため、何かのために生きることができれば、賢者と同じ全体性の意識となるのです。