全体性とは部分の総和ではない

今まで何度も書いたことなのですが、「全体性とは部分の総和ではない」ということをまた書いてみたくなったので、今日はどういう表現になるのか試してみたいと思います。

ジグソーパズルの内の一つのピースをどれだけ眺めていても、それが何を意味するのかは分からないものですね。勿論分からないからこそ、面白いわけです。

勝手に、このピースのこの部分は、恐ろしい猛獣の牙の部分に違いないと思っていても、完成したらそれは天使の美しい姿の一部だったということだってあるわけです。

このように、全体が分かったときに、各部分の在りようというものが変わってしまうということは十分に考えられることなのですね。

ある国の中で、ある一人が極悪非道な犯罪人だとしても、それ以外の人々の心が平和に満ちていたら、そこは平和な国家だということになるはずです。

私たち自身の誰もが個人として生きているのですから、どうしたって全体の中の部分に目が向くのは当然のことかもしれません。

ましてや、個人主義的な生き方をするようになると、視野が狭くなって局所的な見方しかしないようになってしまうのです。

部分というのは、どうしても正不正、善悪のような属性がくっついてしまいがちであり、評価も固定されがちになってしまうのですが、全体ではそうしたものが薄れていくのです。

そして真の全体性とは、無数の物語を包含していながら同時に、すべての善悪が消失してしまう視点であるとも言えるのです。

人物としての私は、どうしても部分に執着してしまうのですが、同時に本質としての自己はあらゆるものであり、それは神の視点でもあるのです。

その一見相容れない二つの視点をいつも同時に感じつつ、生きていけるといいなと思うのです。