事実と思考

一般的に私たちは、自分という存在とは別個に事実というものがあると考えています。自分が生まれる前から地球があって、死んだあとも世界は続くというわけです。

そうしたことは、事実であって自分がいてもいなくても変わることはない。宇宙の歴史から見れば、自分が生まれてから死ぬまでの時間などは、ほんの一瞬だというわけです。

科学的な解釈としては確かにその通りです。そうした解釈を否定しようとしているのではありません。それが、あくまでも解釈であるということに気づいているかどうかということを言っているのです。

自分の人生を物語として見る視点を養うためには、こうしたことにはっきり気づく必要があるのです。そのためには、以下のようなことを日々実践することが有効です。

例えば、「○○は○○だ」と言う代わりに、「○○は○○だ、という思いがある」と言うようにするのです。つまり、前者は事実についての言葉であり、後者は自分の思考についての表現であり、両者はまったく違うものです。

「事実はある」という代わりに、「事実はある、という思いがある」と言えばいいのです。突き詰めていけば、私たちは純粋な客観性というものを持つことはできないのです。

客観的に見るとしても、客観的に見ているという主観がそこにあるだけなのです。何もかもが主観的であり、あなた自身の思考によってしか物事をとらえることはできないのです。

「私は女性だ」ということは、客観的事実に違いないとあなたがいくら言い張ったとしても、それはあなたがそれを客観的事実だとする思いを持っているに過ぎません。

このことを本当に理解しなければ、「自分がここにいる」ということが事実である、という視点から抜け出すことは不可能です。これも言い直す必要があります。

「自分がここにいる、という思いがある」とするのです。あなたの口から出たあらゆる言葉は、事実ではなくてあなたの思考の中身でしかないということです。

それが私たちの思考にできる最上級の思いなのです。

私たちの本質について

今日は、言葉にするのがとても難しい私たちの本質について書いてみます。「それ」は、言葉にしようとしなければ、何の努力も必要とせずに体感することができます。

でも本当は体感ではありません、。体感とは、何かを体感する自分がいるということが前提となってしまうので、そうではありません。敢えて言えば、体感そのものになるということ。

そして、あらゆるものが「それ」であって、「それ」ではないということでもあるのです。「それ」は、この宇宙に満ち満ちているとも言えるし、この宇宙を包含しているとも言えます。

本当に在るのは、「それ」だけなのですが、私たちは「それ」の上に表出するものを「存在」と感じるようにできているのです。だから、存在とは単なる表出に違いありません。

心静かにして目を閉じるだけで、「それ」そのものになることができます。でも本当は、心静かにする必要もないし、目を閉じる必要すらありません。なぜなら、いつどんなときも、「それ」そのものだからです。

私たちは、「それ」ではなかった試しがありません。ほんの一瞬たりとも、「それ」から離れたこともありません。「それ」は表出したすべての存在と密着していながら、存在自体ではないのです。

ヒックス粒子の仮説が証明されたそう?ですが、ビッグバンの直後に光の速度で動き回っていた粒子が、そのヒックス粒子とぶつかることで、質量が生まれたらしいですね。

存在する粒子に質量がなかったならば、勿論私たち人間は存在していません。すごい発見ですが、そうしたことのすべてが「それ」の上で起きたことです。

私たちの本質は、勿論粒子でもなければ時空でもありません。宇宙の物語が起きる舞台です。なんてことを、ヒックス教授にお話ししても仕方のないことかもしれませんね。

精一杯自我を抱きしめる

私たち人間は、一人ひとり立派な自我(エゴ)を持っていますね。人間以外の動物の場合でも、特に高等動物であれば、ものすごく未熟な自我はあるかもしれません。

でも話しを簡単にすれば、人類だけが、自我(エゴ)という心の仕組みを作ることになったのですが、その自我のおかげで私たちは人生という物語を深刻に受け止めてしまうのです。

なぜなら、自我の目的とは心理的に自分を何とかして守ろうとすることだからです。自分のことを、世界から独立・分離した個人という存在と思い込むのですから、その危険度は半端ではありません。

だからこそ、自我のほとんどの働きというのは、自分を守るということに注がれるのです。そのためには、恐怖や不安といった都合の悪い感情を安心に変えようとするのです。

けれども、それを恒久的に実現することは不可能であるために、自我は常に私たちを不安や不満に苛まれる状態へと陥れることになってしまうのです。

自我それ自体が自分なのだと思い込んでいる人もいるかもしれませんが、そうではありません。自我の力の及ばない自分の部分もあるからです。

その部分は、言ってみれば赤ちゃんの頃の純粋で無防備な心の部分だと思えばいいのです。どんな人であれ、その部分なしに生まれてくることはありません。

けれども、自我の発達とともに、場合によってはその純粋な部分をほとんど使わずに成長してしまうこともあるのです。そうなると、人生を楽しもうとする意欲すらなくなってしまうかもしれません。

人生を楽しむ代わりに、安心しようとするばかりになってしまうのです。自我そのものが悪いということはありません。自我がなければ、私たちは動物と変わらない一生を送ることになるのですから。

問題は、自分の内面のほとんどを自我に乗っ取られてしまうことなのです。無邪気さとのバランスが崩れてしまうからこそ、楽しむ代わりに深刻に物事を見るようになるのです。

自我を敵対視しないことです。もしも敵対視したなら、それこそが自我に乗っ取られた状態なのですから。自我をいつも見てあげて、全面的に受け止めてあげることです。

そうすれば、自我は自然と力を弱めていくはずです。なくなることはありませんので、安心して精一杯自我を抱きしめてあげて下さいね。

料金値下げの功罪

今年に入ってから、セッションの料金を大幅に値下げした状態のまま、今に至っているのですが、それによる功罪というものが明確になってきましたね。

いい点としては、当然ですが通常料金に比較すれば、ある程度は気軽に来ていただけるということです。そのおかげか、全盛期とまではとてもいきませんが、クライアントさんの数が昨年までのような低迷状態ではなくなりました。

数だけではなくて、来ていただく方々の幅というか、より若年層が増えたように感じています。いらっしゃる目的も、よりバラエティに富んだものが多くなったように感じています。

そういう面においては、興味津々でクライアントさんのお話しを聞くケースが増えたのかもしれません。人の心というのは、本当に多面的で飽きないものですね。

一方、悪い点と言っていいのか、つまり功罪の罪のほうについてですが、以前にもブログで書いたように気軽にご予約をされるためか、キャンセルが増えたということがあげられます。

それと、ホームページの内容をほとんど読まずにいらっしゃる人が増えた感じがします。たとえば、催眠療法についてほとんど知らずにやってくる方もいらっしゃるのです。

ご本人にとって、それは決してお得なことにはなりません。ただ、知らないというよりも、自分の都合のいいように勝手なイメージを作ってくるわけですが、多くの場合セッションが無駄になってしまいますね。

セッションの効果を最大限引き出すためには、ご本人の本気度を目一杯にして来ていただくのが一番です。そういう方は、料金が高額でもきっといらっしゃる方なのですね。

そういうわけで、とりあえず今年中は、今のままの料金設定でやっていこうと思っていますが、来年からは以前の状態に戻すかも知れません。

どちらにしても、お会いできる方というのは本当にご縁がある方なのでしょうね。単なる言葉だけでなく、本当のご縁というもののありがたさを最近つくづく感じるのです。

自己犠牲がインナーチャイルドを誘発する

どうも自分が思ったように生きられないとか、何だか不自由に感じているといったことがあるとしたら、それはすべての原因が過去にあると思って間違いありません。

いつも理性的な自分でいることができるなら、こうした悩みは起きないはずなのに、どういうわけか心の中の何かが自分の邪魔をするという場合、それはインナーチャイルドに巻き込まれているのです。

インナーチャイルドとは、過去に満たされずにいたときの幼かったあの自分の感情や気持ちの塊のことです。私たちの心というものは、大なり小なりそのインナーチャイルドのエネルギーで満たされているのです。

そして、ここぞというときに、インナーチャイルドが暴れ出して、理性的なあなたを乗っ取ってしまうのです。そうなったら、もう決して理性が勝つことはありません。

一体どういうときに、インナーチャイルドは暴れだすのかご存じでしょうか?もしもそのことを知っていたなら、インナーチャイルドの暴動を回避することができるはずですね。

実は、インナーチャイルドが暴れるのは、大人のあなたが自分自身に自己犠牲を強いているときなのです。たとえば、やりたくない仕事をやらねばならないとして頑張ってやっているとき。

仲良くしたくない人、嫌いな人、苦手な人と長い時間一緒にいなければならないとき。あなたが作った様々なルール、「~すべき」とか、「~ねばならない」を守りたくて、頑張っているときなど。

もうお分かりだと思いますが、自分の気の進まないような何かをするときです。さらに、本当はそれがいやなのだということを自分自身にも隠してそれを続けてしまうと、より激しくインナーチャイルドは暴れまくることになるのです。

そうなると、あなたはきっと大人気(おとなげ)ない状態になってしまうはずです。大人の気ではない、つまり大人のエネルギーではないということ、それがインナーチャイルドのエネルギーに乗っ取られているという意味です。

その逆に、あなたがただそうしたいからそれをしているという場合には、インナーチャイルドはまるでいないのと同じくらいにまったく静かにしていてくれるのです。

そういう意味からすると、あなたがあなたらしく活き活きと生きているかどうかを知らせてくれているのが、インナーチャイルドだとも言えますね。

人生は楽しむためにある

子供の頃に、家族全員でトランプをやることがあったのですが、それはもう楽しい時間でしたね。大抵は父親がどこかから仕入れてきたトランプゲームをするのですが、熱中したものです。

ところが、あれほどみんなで大いに盛り上がっていたのに、「そろそろ終わりにしよう」と誰かが言い、そうだねということであっさり終わってしまうのです。

自分が、「もう少しやろうよ」といくら言ったところでそこできっぱりと終ってしまうのでした。勿論、今考えれば親は明日朝早く起きなければとか、今日やり残した家事仕事などをやらねばと考えていたのだろうと分かるのです。

けれども、その時の自分にはなぜそれほどあっけなく辞めてしまえるのか、不思議でなりませんでした。どうして、これほど楽しいことをもっともっと続けようとしないのか、疑問だったのです。

大人になると、ゲーム以外にもいろいろな関心ごとや心配事があって、子供ほどの集中ができなくなるのでしょうね。でも、何だかそれってつまらない人生になってしまう気がしませんか?

学生のころに、曲を作って録音するという趣味があったのですが、あるとき音を何度も重ねて録音できる機材を手に入れたときに、夢中で録音をし続けたことがありました。

夕食を食べながらも作業を継続して、気が付いたときには夜が明けていたということがあったのです。それくらい、興味のあることには夢中になれるときがあったのですね。

それが社会人になると、明日の体調の心配をして、なるべく睡眠時間を取るようにと考えるようになって、規則正しい生活へと変化してしまいました。

勿論、それは責任ある社会人として心がけなければならないことではあるのですが、何かこう味気ないような気持ちにもなるのです。

節度を守った毎日を送ることは、健康面においても大切なことですが、それだけではなくて、人生はやっぱり楽しまなければつまらないと思うのです。

たまには、子供心を思い出して、自分がやりたいと思うことを時間を忘れて存分に楽しむことも大切ですね。人生を深刻なものととらえるのも、楽しむためのものととらえるのも、あなた次第ですね。

あなたの心を傷つけられるのは、あなたの心だけです

肉体が傷つくとしたら、それは勿論何らかの外的要因によってであることは明白です。身体がみずから、あるいは自然に傷つくなどということはありません。

それでは、心の場合はどうでしょうか?私たちは、心の場合も肉体と同様に外側からの何らかの刺激によって、傷つけられるのだと考えています。

例えば、誰かの心ない一言だとか、皮肉や、デリカシーのない言葉など、そういうのを言葉の暴力とも呼ぶわけですから、私たちはいくらでも他人によって心を傷つけられた経験があると信じています。

けれども、本当は違います。先に結論から言ってしまいますが、自分の心が自分以外の何かによって傷つけられるということは決してありません。

自分の心を傷つけるものは、自分の心以外にはないということです。このことを検証してみたいと思います。たとえば、ある言葉を100人の人に自分が言われた言葉として聞いてもらったとします。

結果は、深く傷ついたと感じる人もいれば、少しだけ傷ついたという人もいるでしょうし、あるいは何とも感じなかったと言う人だって出てくる可能性があるのです。

なぜこのように、受け取り手によって傷つくかどうかが決まるのかというと、その人の心の中にそれまでの過去がぎっしり詰まっていて、その過去と言葉を照らし合わせることで、傷つくかどうかをその人の心が判断しているからです。

心は、肉体のように外的要因から直接的に傷つくのではなく、外的要因をきっかけとして自らの過去の体験を基にして傷つくかどうかを自分が決めているということです。

そして、どんな心の人がより傷つきやすいかというと、それは自己防衛の程度に大きく比例するということです。つまり、より強く傷つきたくないと思っている人の心ほど、より深く傷つくことになるということです。

誰かの心を傷つけたくないとして、自己表現を抑えたり、気を使って疲れてしまうことが多いと感じているのなら、このことをしっかり思い出すことです。あなたが、直接誰かの心を傷つけることはできないのですから。

そして、あなた自身も誰かに心を傷つけられたと受け身で捉えようとしたときにも、この事実をはっきりと思い出すことです。あなたの心を傷つけられる誰かなど一人もいないのです。

あなたの心を傷つけられるのは、あなたの心以外にはありません。あなたがどれだけ、傷つきたくないと思っているかを、一度総点検してみるといいかもしれませんね。

人生という物語を愛を込めて抱きしめる

本質の自己である全体性に意識が向いているとき、一人ひとりの人生がそれぞれに違った単なる物語である、ということがよく分かります。

物語を見る目はとても優しいのです。それは、無防備な目でその物語を見つめているからです。けれども、物語であると同時に何もないということでもあります。

何もないとは言わないまでも、ただ現象が起きているというだけです。そこには、物語はおろか何の原因も結果もありません。理解を越えたところで、ただ起きているのです。

無から現象がやってきて、その現象が距離ゼロの地点で起きているのです。無からやってきた神は、きっとそうしたことを驚愕しながら見ていることでしょうね!

一方、個人としての自分は、自分の人生を物語として見ることも勿論できますが、リアルタイムでその時々に物語としてとらえることはなかなか難しいかもしれません。

誰かにクルマをぶつけられて逃げられたときに、咄嗟にそれを物語として見るのは至難の業ですね。その時には、人生の中にどっぷりと浸かってしまうのです。

それが問題なのではなく、そこから物語だという視点に戻れなくなってしまうことが、唯一苦しみを継続させてしまう原因であるといえるのです。

自分の人生も、相手の人生も、同じように愛しい物語であるとして見ることができるとき、人はより無防備になって愛を与え合うことができるようになるのでしょう。

物語の内容がどんなものであれ、それはまったく問題ではありません。それがすばらしいラブストーリーであろうと、悲惨な戦争物語であろうと、世界滅亡のSFであろうとも、構いません。

あなたは、ご自身の人生という物語をやさしく抱きしめてあげることができますか?それは、誰かを愛しさを込めて抱きしめることと何の違いもないのです。

70億個の視点

ある日ある時、神の恩寵がやってきて、自分の本質である全体性に気づいたとしても、私たちは自分の視点からものを見ることをやめることはできません。

それが終わりを告げるのは、当り前のことですが肉体の死がやってきたときだけです。それまでは、今まで通りの人生が続き、ほかの誰かの視点を使って世界を見ることはできないのです。

けれども、本質の自己はあらゆる人々の視点からこの世界を見ているということもわかっています。ここにこそ、個別性という性質が持つ矛盾を見出すことができますね。

自分が個人だと思っている思考の中においては、自分以外を客観的にしか捉えることができないように仕組まれているわけです。その性質自体が個別性というものなのですから。

仮に、Aさんがもう一人いても私自身が矛盾することはありません。不思議な話しではあるけれど、私にとってそれが不可能ではないということです。

けれども、私がもう一人いるとしたら、それは不可能であると感じるのです。なぜなら、私と同じ人物が向う側にいたとしても、そのもう一人の視点から見ることが不可能である以上、それを私だと認めることができないからです。

しかしながら、私が何人いたところで、あなたにとっては矛盾することはないはずです。それくらい、個人としての私という認識には真実を欠く性質が与えられているということです。

個人としていながらにして、同時に全体性でもあるということは、私の中で少しも矛盾することではありません。これは本当に摩訶不思議なことだと常々驚いています。

まったくもって、うまくできているものだと感心せずにはいられません。一体誰がこんなことを考え付いたのか、この世界は本当に不思議に満ち溢れています。

もしも、今回のあなたの人生が「なんだかな~」と感じるようなものであったとしても、それはそれで何も問題ではありません。あなたとは、あなたの本質が一瞬だけあなたの肉体から世界を見ている体験を指しているのです。

また別の瞬間には、この私として私の人生を生きているのです。私についても、次の瞬間にはあなたの人生を生きていると感じているはずです。

互いに、時々視点を交換することができたら、このことが本当だったと理解できるのですけれどね。そういう映画やドラマもあるようですけれど。

繰り返しになりますが、本当のあなたは少なくともこの地球上で70億人分の視点を同時に経験しているのです。すべてがあなたの本質の中で起きている物語なのですから。

「キリがいい」ことに執着しない

インターネットが普及する以前には、あまり聞かなかった言葉で「キリ番」というのがありますね。(最近は、あまり使わない言葉になってしまったかもしれませんが…)

「キリ番」とは、つまりキリのいい番号という意味で、たとえばホームページやブログなどのアクセスカウンターの番号が、100000 になったりした場合に言われるわけです。

私たちは、何となくですが、この「キリのいい」ことが好きなのですね。それは、逆を言えば中途半端が好みではないということかもしれません。

テストで99点を取るよりも、間違いなく100点のほうが気持ちがいいですし、大晦日と元旦を祝日として特別視するのだって、その年の終わりが切れ目としてキリがいいからです。

キリがいいことを好むことがいいとか悪いということはありませんが、それ以外の自分の心の声を無視してキリがいい方を選んでしまうと、問題が発生してしまう可能性が高くなるのです。

食事などで、身体はもう満腹していてこれ以上食べたくないと訴えているのに、ほんの一口だけ残すのはいかにもキリが悪いと感じて、食べてしまうということはないでしょうか?

この場合は、勿論もったいないという感覚も手伝っているかもしれませんが、冷静に考えたら身体からの訴えを優先した方が健康にいいことは明らかです。

仕事を終えて帰ろうとするときにも、キリのいいところまでやってしまおうとして、ついちょっとだけ残業をしてしまうと、別の仕事を頼まれたり、受ける必要のない電話の応対をやらされたりして、帰ればよかったと後悔するのです。

自分の中にある、キリのいい方を選ぼうとする気持ちと、キリが悪くても○○したいという気持ちの両者を、いつも天稟にかけて冷静に選択することができたら、余計な問題を背負い込むことが少なくなるはずです。

お皿に盛られた食べ物を、キリよく全部を平らげて、不健康になったり肥満になってしまったとしたら、それこそ不利益を被ることになってしまいますね。

そして、ここが一番大切なところですが、キリのいいところで人生を終えたいという思いが、輪廻転生を生み出していると私は感じています。

キリよく何かを終えるということは本質的には不可能なのです。何かをすれば、必ず別の何かが途中になってしまうからです。それが、物語を継続させる原動力なのです。

思考を未来に飛ばすことなく、しっかり今に意識を向けることでいつでも物語を終えることができるのです。それが執着のない、潔い生き方なのだと思うのです。