年齢とは身体に対してだけのもの

私の毎日というのは、そのほとんどが自宅とスポーツクラブとオフィスの間を行ったり来たりのイヤになるほどのワンパターンなのです。

滅多に外出することはありません。先日本当に久しぶりにちょっと遠方まで出張セッションに行きましたが、それが今年電車に乗った最初で最後になるかもしれません。

そんな私の退屈過ぎる毎日ですが、今日は珍しく奥さんの実家に来ています。慣れない事をしたせいなのか、加齢による身体の衰えを見事に感じてしまいました。

自宅から200km強の殆んどの距離が高速道路を走るのですが、たまたま集中工事と重なったこともあって、疲労困憊してしまいました。

クルマの運転は大好きなはずだったのが、もういけません。首は凝るは、腰はだるくなるはで、もう運転は向いてないとまで感じたほどでした。

さらに普段は決してやらない柿の実をもぐ荒技を、足場の悪い場所で奮闘したせいで、今全身の疲労感と戦っています。

おまけに力技を少々。太い木をノコギリで切ったり、廊下に手すりを新しくつけるため、木ネジを受け付けないくらい硬い柱と電動ドライバー片手に戦ったり。

人間、身体の老いには勝てないのですね。残念ですが、これが現実です。けれども、心は老いるということがありません。

老いるどころか、以前よりもより人生を気軽に楽しむことさえ出来るようになるのですから、確かに生きることは面倒くさいことですが、歳を重ねる意味はあるかもしれません。

さらに、何歳になろうとも、自分の本質である全体性に意識を向けていれば、それが不変であることにも気づいていられます。

みなさんに知られている私の年齢は、ただ身体にとってのものであり、心の年齢は恥ずかしながら青年のままであって、また本質は年齢など超越した実在なのですから、何という幸運なのでしょう!

心の空間について

10年間オフィスとして使っていたマンションを引き払い、今のオフィスに引っ越してきてセッションを開始したのが、昨年末の12月20日でしたから、今日でちょうど10ヶ月経ったことになります。

以前のオフィスと比べてとても狭いので、部屋の中にずっといると飽きてしまうという欠点がある反面、仕事場として割り切って使えるという利点もあります。

部屋代は1/3以下になりましたし、事務所仕様なのでシャワーすらついていないシンプルさも気に入ったのですが、長くいるとやっぱり不便は不便ですね。特に今年の夏は暑かったですから。

けれども、一番感じていることは、人は必要なだけのスペースが確保できればいいというものではないということです。今の部屋の広さは、セッションをするには手狭ではあっても特別問題はないのです。

ところが、何というのか広さに遊びがないのです。無駄な空間というのは、人間の感性にとっては必要なものなのかもしれませんね。

こんな部屋なのですが、それでもここが心地いいと言って下さったクライアントさんもいらっしゃいました。きっと、それはご自身が心をオープンにして私と会話することができたことで、清々しい気持ちになることができたからだと思います。

確かに環境は大切です。快適で居心地のいい空間は大好きです。けれども、本当に大切なのは、目には決して見えない心の空間の方かもしれませんね。

あなたの心の空間には、快適な広がりがありますか?狭くなってはいませんか?何か不愉快なものに占領されたりしてはいませんか?

いつもご自分の心の空間に意識を向けていてください。そして、どんなものがあろうと、それから目を背けずに見てあげることです。あなたの大切な場所なのですから。

神経質な人たちとガサツな人たち

あるバラエティー番組で、極度に神経質な人たちと、それとは対照的にガサツな人たちとをそれぞれチームに分けて、互いの言い分をぶつけ合うという内容のものをやっていました。

公平に見ていて、どちらの言い分にも「確かにそうだ」と頷けるところがあって、とても興味深かったのです。私自身は、どちらかというと神経質チームの方に入るのですが、それでも勿論ガサツな一面も持ち合わせています。

誰だって、そんなに簡単にどちらかに分類されるわけではないでしょうけれど、それでもどちらかが優勢なはずです。自分の立場を分かって両者の主張を聞いているのは、本当に面白いものですね。

神経質チームの言い分のほとんどは、ガサツチームへの否定的な態度として現れるのですが、ガサツチームは何を言われてもそれほど堪えた様子もなく、面白がっているだけで、ちょっと大人の風情さえ感じさせます。

したがって、文句が多いのは明らかに神経質チームであり、彼らのほうがより子供っぽいという印象を受けますね。ガサツチームは、それほど強い主張はしないものの、神経質チームの生き方では不自由だろうという真っ当な意見を持っているのです。

どちらの生き方がより楽かといえば、間違いなくガサツチームに軍配が上がるのでしょうけれど、それだけで話しを終えたくはないのです。

神経質チームは、ガサツチームに比べて、基本的に情報量が多いのです。つまり、知覚が敏感であるためにより強い反応を起こしてしまうため、生きるのが厄介なのです。

私が思うに、神経質チームの人たちが心の癒しを進めていったときには、きっとガサツチームの人たちのような自由さ、あるいは無防備さを体得することは可能なはずです。

そして、そこに留まらずに、もっともっと無防備な人生を生きるようになれるはずなのです。その時には、かつての敏感さゆえの苦しみから解放されるだけでなく、繊細さを持ち合わせた愛で人のために生きる人生へと向かうこともできるのではないかと思うのです。

認識が事実をでっち上げる

目の前に一冊の本があると仮定します。その本は、あなたのお気に入りの本の中の一つです。ハードカバーで、持った感じはそこそこの重量感があるかもしれません。

表面は光沢があって、清潔感溢れる色合いです。大好きな本なので何度も読んだせいか、新品というほどにはきれいな状態ではないものの、どの角度から見ても魅力的な体裁なのです。

本には、それぞれに独特の香りというものがありますね。それはきっと紙質からやってくるものもあるでしょうし、印刷の匂いもあるのでしょう。大好きな本なら、その香りはあなたにとってきっと香しいもののはずです。

その本の中には、あなたを心の底から感動させるすばらしい物語が閉じ込められていて、ひとたびあなたがページをめくれば、あの感動が蘇ってくることをあなたは知っています。

その本に対してあなたがこのような印象を持っていたとしても、それが事実あるいは真実ではないことは明白です。なぜなら、上記したことのすべてが、あなたという存在から発せられたものだからです。

たとえ他のたくさんの人たちも、あなたと同じような印象をその本に持っていたとしても、それは人数が増えただけであって、それを事実と呼ぶことはできないのです。

目を閉じただけで、本の体裁や光沢などあらゆる外観は消滅してしまいます。触れることがなければ、本の質感すらなくなってしまうはずです。

勿論、その本の中にはどんな物語もあるはずもありません。ただ印刷された文字とおぼしきものが詰まっているだけです。そして、最終的にはそこに本があるということさえ不明であり、事実でも真実でもないのです。

このようにして、私たちは何かを認識することができるとしても、その何かを直接知ることはできません。つまりは、あなたは本当は何も知らないし、事実というものがあるということさえ事実ではないのです。

つまり、あなたが知っているこの世界というのは、あなたの認識によって作られたものに過ぎないということです。あなたが、この世界を美しいと感じようが、醜いと思おうが自由ですが、それはあなたの心そのものだということです。

そして、私たちの本当の姿はこの世界の中にあるのではなく、認識を遥かに超えたところにこそ在るのです。

○○恐怖症の原因

ライオンに追いかけられたら、誰だって怖いですし、ビルの屋上の縁を歩けと言われても、怖がるのは当然のことですね。なぜなら、物理的に命の危険を察知するからです。

一方、ライオンの写真を見ただけで怖がる必要はありませんし、高層ビルディングの写真を見ても怖いと感じることはないはずです。命に別状はないと分かっているからです。

けれども、本当は危険ではないと理性では分かっていながらも、実際に恐怖心を感じてしまうことがあるのです。そういう症状のことを○○恐怖症と呼んだりしますね。

誰もがそれほどには怖がることもないことに、異常とも思えるくらいの恐怖心を感じてしまうのですから、本人としてもわけが分からないし、場合によっては何とも不自由な生活を強いられることになってしまうのです。

そうした、○○恐怖症という症状を癒すためには、その恐怖が一体どこからやってくるのかということを突き止める必要があります。

たとえば、閉所恐怖症というものがありますね。エレベーターなどの密閉された空間に自由を奪われて入っているような場合に、死ぬほどの恐怖がやってくるわけです。

その恐怖はその瞬間に感じているのですが、実際にはその恐怖は過去からやってきているということに気づくことです。感じているのは今でも、その感情の出処は今にはないのです。

また、今感じているひどい恐怖感が、実はまったく縁もゆかりもない過去のある事象に関連した恐怖だったということもありますし、このケースのほうがむしろ一般的かもしれません。

つまり、○○恐怖症の人がそれを恐れている本当の理由は、それとは無関係な過去の何かからやってくるということです。その場合、荒療治によってその恐怖症を克服したとしても、元が残っているわけですからまた別のネタを使った恐怖症を作り出す可能性もあるのです。

○○恐怖症は、あなたが過去に感じたはずの耐え難い恐怖を抑圧した結果起きるのです。あなたがその恐怖から(自覚のある無しにかかわらず)逃げれば逃げるほど、過去の恐怖があなたを追ってやってきた結果なのです。

そのことに気づき、表面化している恐怖症を克服しようとする代わりに、逃げ続けてきた闇に焦点を当てる作業を始めることです。もしも、今はそれが無理だとしても、きっといつかは逃げずに見ることになるので大丈夫です。

「ノー」を言うことの大切さ

私たち一人ひとりの人格形成というのは、生まれてすぐに開始されます。初めは泣くことによって、自分の欲求を表現するというものです。単純ですが、ここからスタートするのです。

そのうち、自分にとって心地いいものを欲しがり、いらないものには容赦なく「ノー」を突きつけるようになるのです。この、「ノー」という表現こそが最も大切な人格形成の基礎なのです。

なぜなら、「ノー」がその子の個性を守ることになるからです。親の好みや考え方、ルールが子供に与えられたときに、もしも「ノー」を言えなければ、その子の個性は闇の中に葬られることになるからです。

私たちは、幼いときに全方位に対して「ノー」を表現することで、自分の周りに「ノーの壁」を作り、大切な自分だけの個性を守ろうとするのです。

「ノーの壁」の内側が自分の個性であり、幼いうちにそこをしっかり守って誰からも侵略されないようにする必要があるのです。その内側が自分の人格を形成する大事な土台となるのです。

けれども、何らかの理由によって、十分に「ノー」を言えなかったり、言ったとしてもそれを受け止めてもらえないことが続くと、子供は「ノー」を言わないことで生き延びようとし始めるのです。

そうなると、大抵は親のエネルギーによって侵略されてしまうため、大人へと成長していく段階で、自分固有の好みや考え方が分からなくなってしまうのです。

最終的には、自分がやりたいこと、自分の気持ち、自分の感情、そうしたことまで分からなくなってしまうのです。自分とは誰なのか、しっくりこない人生が待っています。

幼いときに作った「ノー」を言わないで生き延びるルール、それをいまだに使って生活していることに気づき、できるところから「ノー」を表現するようにすることで、人生を変えていくことができます。

表現しないまでも、少なくとも心の中では十二分に「ノー」が言えるようにしていくことです。「ノーの壁」の内側に入り込んでしまった自分以外の誰かのエネルギーを徹底的に追い出してください。

そうすれば、あなたのオリジナルと少しずつ繋がっていけるはずです。その時こそ、自分が生きている、自分を楽しむことができる人生を手に入れることができるのです。

転移について

人と人が一緒にいて、ひどく拒絶し合わない限りは、それがどんな状況であっても、一つの人間関係であることは間違いありません。それが家族同士であっても、職場の仲間であっても、学校の友達でも。

クライアントさんとセラピストの関係というのも限定的ではあるけれど、人と人がある種の本音で繋がる経験をするのですから、それも立派な人間関係が構築されるわけです。

けれども、かなり特殊な関係性が出来上がってしまうのも事実です。なぜなら、クライアントさんは一方的に自分の心の内奥をさらけ出し、普段よりも無防備な状態になるからです。

人は防衛が減ると、あっという間にその分だけ恐怖が減少するので、恐怖に代わって愛が表面に現れるのです。つまり、心をオープンにした分、目の前にいるセラピストを信頼するのです。

そうしたことは、セラピストとしてはセッションを効果的にするためには願ってもないことです。けれども、その愛が、クライアントさんの依存心や大人の恋愛感情と重なると、厄介なことが起こってきます。

それがよく言われる、「転移」というものです。個人的にはあまり好きな言葉ではありませんが、転移は思っている以上に多発します。

クライアントさんは、自覚のないままにセラピストの全人格の一部を切り取って、自分の理想の相手として見るようにさえなることもあるのです。

純粋な愛のままでいるということは、ほとんどないに等しいでしょうね。そうなると、それは裏返ってセッションの邪魔をするようにもなってしまうのです。

なぜなら、クライアントさんは癒し目的だと思っていながら、気づかぬうちにセラピストに会うことが目的でセッションに来るようになるからです。

その場合には、セラピスト側からセッションをお断りすることもやむを得ないのです。転移の影響が去って、それでもまだセッションを受ける気持ちがあれば、その時はさらにすばらしい癒しのセッションができるのでしょうね。

あなたの人生を本質に譲る

日々、さまざまなクライアントさんとセッションを通してお話しさせていただくなかで、私たちの本質について気づいている、もしくは何となくわかっているという方が時々いらっしゃいます。

それは、簡単な検証をさせていただくことで分かるものです。たとえば、自分が肉体そのものだという根深い思いがある一方で、身体そのものではないということに気づいているということ。

そして、だとするともっとも近い表現を選ぶならば、自分は意識だということ。さらに、意識の境界を調べて見て、それが見つからないことも明らかであるということ。

それはつまり、意識には大きさというものがないということ。したがって、それは無かあるいは無限大であるということ。そこまでも分かっているということです。

そして、人によってはいつもこのブログで使っている全体性のことをしっかりと感じてもいるのです。それは明らかに、みずからの本質について知っているといってもいいのです。

それなのに、日々の生活の中に横たわる苦しみの中にいて、それに翻弄され続けている方々がいます。自分の本質に気づいているはずなのに、そのことが人生の問題を解決してくれないのです。

それはなぜなのかと不思議に思いませんか?実はそれは当り前のことで、本質に気づいたからといってそのことが直接的に問題を解決してくれるものではないからです。

気づきの効果は、間接的にやってくるのです。本質に気づいているのは、あなたではなくて本質そのものだからです。私たちのエゴは、それを自分の手柄のように横取りして、あたかも自分が気づいたようにでっちあげるのです。

あなたの本質が、あなたが望むように、あなたの人生に手を入れることはありません。あなたに特別な力を与えて問題を乗り越えられるようにしてくれるわけでもないのです。

あなたが、あなたの人生の行方をあなたの本質に譲ることです。そうした要素が増えてくればくるほど、あなたは問題を解決しようとしなくなり、その結果問題は問題ではなくなるのです。

「面倒くさい」は大チャンス

以前テレビで、矢沢永吉さんのライブツアーの様子をドキュメントタッチで放送している番組を見たのですが、彼は納得いくまでリハーサルをし、ステージでの曲順などの段取りを厳密に決めたうえでツアーを開始するのです。

けれども、ツアー中にもかかわらず、毎日終わった後反省会を開いて、何か気に入らないことがあるととことん拘って、ダイナミックに曲順をかえたり、曲の中での演奏内容を変えたりさえするのです。

本人いわく、面倒くさいかと聞かれたら面倒くさいに決まってるけど、今やらなければいつやるんだ、と明言していました。その変更の影響は、一緒にツアーに参加しているミュージシャンたちに多大な労力を要求することにもなるのです。

先日引退することを発表した宮崎駿さんの、最後の作品となるだろう「風立ちぬ」の製作現場に密着取材した番組を観ました。彼は、大抵がひどく不機嫌で扱いづらい人のように見えました。

彼の口癖が、「面倒くさい!」でした。面倒くさいを何度も何度も連発しながら、どうにかこうにか創作を続ける苦闘の毎日を送っていたんだなということがよくわかりました。

さらに彼は、「大抵、大切なことは面倒くさいものだ!」とも言っていました。彼によると、「風立ちぬ」は今までの彼の作品の中でも際立って面倒くさいものだとも言っていました。

実は、面倒くさいという心の奥には恐れが潜んでいます。立ち向かうことを恐れていると、そのことを隠そうとして面倒くさいという感覚になったりするのです。

面倒くさいからやらないかと言えば、やらずにはいられないのです。それが、彼の中の好奇心だったり、純粋な愛の部分なのでしょうね。

あなたの人生にも面倒くさいは、度々やってきているはずです。その時には、恐怖から身を守ろうとする防衛を少しでも緩めて、できるだけ無防備になるチャンスがやってきたと思うことです。

日々の「面倒くさい」を点検してみることですね。そして、面倒くさいという感覚を十二分に感じながらも、逃げずに行動することです。

そういえば、最近面倒くさいセミナーをやってないなあ…。

「和を以て貴しとなす」の本当の意味

「和を以て貴しとなす」という昔からの言葉がありますね。ネットで調べてみると、以下のようなことが書いてありました。

『人々がお互いに仲良く、調和していくことが最も大事なことであるという教え。
聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉。
「和」の精神とは、体裁だけ取り繕ったものではなく、自分にも人にも正直に、不満があればお互いにそれをぶつけ合い、理解し合うということが本質ではなかろうか。』

上の文章の最後の一文がとても大切なように感じます。つまり、「和」というのは単に仲良くあればいいというような安直な表面上のことを指しているのではないということですね。

自分の気持ちや言いたいことを抑えて、相手に迎合したり、相手の気持ちを尊重するあまりに本音をごまかしてみたり、そうしたことの上の平和は本当の「和」ではないということです。

それは、見せかけの「和」であり、目的は自己防衛に他なりません。自分の正しさを守ろうとしたり、相手を打ち負かすために自己表現するのではなく、あくまでも理解し合うために自己主張するということです。

争い事が嫌いというだけで、自己表現や感情表現を抑えてしまうと、いつまでたっても誰とも心からのコミュニケーションができないままになってしまうはずです。

敏感気質で産まれると、幼いころから傷つくのが怖くて、気が付くと人との関係を丸く収めようとする癖がついてしまうことが多いのです。

その結果、あまりにも自分に不正直に生きるようになってしまうために、反動として極端な感情表現をすることが起きてみたり、鬱症状に苦しむことになったりするのです。

「和」の本当の意味を再認識してみて、もしも自分は真正面から相手と向き合うことが苦手だという感覚があるのでしたら、自分がやっている自己防衛がどういうものが、点検してみることですね。

人と人は真に対等なものです。誰かに媚びへつらう必要もなければ、見下す必要もありません。ありのままの自分を丸ごとオープンにすることで、相手のこともオープンに受け入れることができるようになるのです。

そうしたうえで、初めて「和」を体験することができるということですね。