無邪気さと社会性の融合

最近、健康のために俗にいう青汁というものを飲むようになりました。私が利用しているものは、粉末状のもので、それを水かお湯に混ぜてゴクゴク飲むわけです。

健康にいいからという理由だけで、まずいものを我慢して飲むことができない私は、青汁の中でも決して不味くないものを選んでいるために、ごく普通に毎朝服用できています。

その青汁の粉末がお湯よりも比重が重いようで、スプーンで何度混ぜてもしばらく経つと粉末が下に沈んでしまうため、なるべく早めに飲んでしまわなければならないという不便さがあるのです。

比重を軽くして、あっという間に水に溶けてくれるように工夫してくれたら、もっと楽に飲めるのですけれど…。それでも、まずくて飲めないと思っていたのに飲めることが分かったので、とてもありがたいと思っています。

ところで、水と油という表現があるように、油を水の中に入れていくら溶かそうとしても油が水をはじくし、比重がかなり違うために、決して混じりあうことがありませんね。

そのため、その二つはコップの中で上下に真っ二つに分離した状態にすぐになってしまうのです。人の心の状態も、この水と油のようになってしまっている場合があるのです。

通常、私たちの心の中には、純粋で無邪気な心の部分と、理性的で社会に順応しようとする大人っぽい部分とがあり、バランスのとれた人はその二つがうまく混じりあっているのです。

つまり、お湯に上手に溶け込んだコーヒーや紅茶のようなものですね。時間が経っても分離することがほとんどない状態ということです。どちらか一方が、他方をそれほど、はじこうとはしないでいる状態とも言えます。

そういう人は、プライベートな場面と職場などの社会的な場面において、あまり違わない人格で過ごすことができます。無邪気さと社会性が上手に混じりあっているからです。これが、成熟した心の状態です。

一方、水と油のように心の中の両者が分離してしまっている人の場合は、プライベートでは無邪気さが前面に出る反面、職場などでは隙のないきちっとした人物となり、その違いが顕著になってしまうのです。

そしてこの場合、無邪気さだけが幼さの象徴ではなく、大人っぽい社会性のある面を作り出しているのも、実は幼い心の部分だということに気づく必要があります。

水と油のように分離した心を作ってしまったのは、大人ではなくて幼いときだからです。どちらも幼稚なのです。大人の仮面を被った子供が社会で生活していると言えば分かりやすいかもしれませんね。

外で頑張り過ぎるあまりに、家ではその反動として幼さが満載状態になるのです。そして、その反転が毎日繰り返されることになるのです。

どちらの自分も過去の自分の心であると理解して、今この瞬間の自分がそれらを一つひとつ受け止めてあげることです。そうすることで、過去に生きている両方の心に乗っ取られずに済むようになるのです。