「うつ」症状は最大の気づきのチャンス

私は23歳から45歳までの22年間、ごく普通のサラリーマンをしていましたが、毎朝起きてから会社に出かけるまでの時間が一番辛かったのを覚えています。

具体的に何が辛いということでもないのですが、とにかく今日一日がまた始まるということが辛かったのです。職場に行ってしまえば、それなりに仕事をするのである意味平気になってしまうのです。

夕方くらいになると、結構調子がよくなってきて自分なりに元気が出てきたのが分かるのです。そのあとのお決まりになっていた残業時間は、もっとも効率的に仕事ができる時間帯でした。

そして次の朝起きると、また面倒くさいという重しのような気持ちに圧倒されてしまうということを、毎日繰り返していたのだろうなと思うのです。

一日のうちのどの時間も、決して自分に正直ではないということはないのですが、それでも朝のあのイジイジした心の状態が一番正直な心の状態を表していたと感じます。

身体が重くて動かないというところまでは行ってないにしても、何となくの無気力な状態でしたから、一般的には「うつ」の症状だったろうと思います。

けれども、今思えばその時のいやな感覚がなければ、今の仕事には就いていなかったはずです。人生がうまくいっていないと感じるときにこそ、大切な気づきがやってくるのです。

そのことは、肝に銘じてあるはずなのですが、毎日がうまく行くようになるとすっかり忘れてしまい、気づきのない毎日になってしまうのです。

だからいつも、何かうまくいってないと感じる部分が少しはあった方がいいということです。人は完全であることはできません。したがって、あるがままの自分に正直に寄り添うことができれば、何かはうまくいってないと感じるはずなのです。

その部分を逃げずにしっかり見て、丸ごと受け止めることができるなら、最大の気づきが訪れて、問題は自然と消滅するか、どうでもよくなっていってくれるのです。

人との関わりを心地よいものにするには?

私たちは、どんな状況下で暮らしていようと、どんな仕事をしていようが、人と人との関わりの中で生活しています。ですから、それが心地よいものであるかどうかは、とても大きな問題ですね。

人との関わりが心地いい状態というのは、様々な要素が絡み合っているのですが、根っこにあるのは相手との対等感だという気がしています。

基本の部分で、互いに相手のことを対等だと認識できていることがとても大切だということです。勿論、表面的な部分においては、それが親子や夫婦の関係であれ、師匠と弟子、先生と生徒の関係でも同じです。

それは相手を尊重するという心が作り出すものですね。相手の存在を見ているかどうかということ、愛だけが相手の存在へ向かうものであって、それ以外の気持ちは相手の違う部分を見ているのです。

相手が自分にとって、どれだけ価値があるか、どれほど自分の期待に応えてくれるのか、言うことを聞いてくれるのか、どれだけ見栄えがいいのか、そうしたことを対象とするのが私たちのエゴの部分なのです。

愛以外の要素で相手と関わりを持つと、必ず関係性は複雑なものへと変貌してしまうのです。互いの距離感がうまく作れなくて、相手の心に侵略したり、あるいはされたり。

相手に依存したり、依存させたり、見下したり、見下されたりすることが起きてきます。また、場合によっては、互いに関わっていく中で知らず知らずのうちに、相手を巻き込んだり巻き込まれたりすることもあるのです。

勿論、巻き込まれる側は被害者の立場に見えるし、巻き込んだ方が加害者になってしまうのですが、本当のところ両者は似た者同士なのです。

人を巻き込んでしまう人は、無自覚のままに巻き込む相手を探しているし、巻き込まれてしまう人は自分をまきこむ人をひきつけてしまっているのですから。

カルト集団の教祖が困っている人の心に付け込んで、相手を洗脳し人生レベルで搾取するようになる一方で、洗脳されてしまう信者の方は、そうした罠に自ら嵌っていくのです。

人とどんな関係を作るかは、100%あなたの心の中にその原因を見出すことができます。どんなことになろうとも、あなたの外側にその原因があると信じている間は、問題は解決しないのです。

あなたの心の内側、心の声をじっくりと聞いて受け止めることができれば、おのずと人との関係性は変化してくるはずです。

自分の心を受け止めて、尊重することができれば、相手の存在をも受け止めることができるようになり、そうした関わりはきっと心地よいものになるはずです。

この世の物語とその源泉を同時に意識する

一体全体自分はなぜ生まれてきて、どうしてこのような不思議な人生を経験させられているのだろう?と感じたことのある人は沢山いらっしゃると思います。

何かとても不思議で、天の神様にでもその理由を聞いてみたいと思うわけです。何かが仕組まれているに違いないと感じて、前世にそのわけを見出そうとしたりするのです。

自分の人生に興味を持つことはいいことだと思います。それは自分という存在にも興味を抱くことになるからです。ただし、そうした人が二手に別れることも見逃せません。

一方では、この人生に起きることは決して偶然ではないと感じて、そのことを追及しようとするのですが、もう一方ではこの人生がやってくる源泉に思いを馳せるのです。

両者の違いは歴然としています。どちらが優れていて、どちらが劣っているということではありませんが、見ようとしているレベルには決定的な違いがあるのです。

前者は、この世のしがらみから離れているようで離れてはいないのです。思考によって、この世界のからくりを解き明かそうとしているからです。だから、そこにはカルマとか輪廻などの時空がからんでくるのです。

このやり方は、面白い結果を導き出すことができる場合もあるかもしれませんが、やはり真理ではないのです。なぜなら、個別性がその主役の座から降りていないからです。

一方後者は、上手に言葉で説明することはできない分だけ、真理に近いと言えるのです。真理には、原因と結果、つまり因果というものがありません。

それはあたかも真理のようにも見えるのですが、あくまでも思考の産物に他なりません。興味深いというのは、そういう物語を思考が好むからなのです。

双方を同時に視野に入れて、日々を過ごすというのもいいかもしれませんね。私は、この人生で起きる不思議も、それを現象化させている自分の本質も、どちらも同時に見ることが気に入っています。

私たちの誰もが最高の演者

昨日のブログで、私たちは人間関係の中で常に何等かの役割を演じているということを書きました。そしてそれは、決して悪いことではないのですが、やり過ぎると心が疲れてしまうことになるということです。

適当に様々な役柄を演じていられると、ストレスが溜まることも少なくなるはずです。その点では、俳優さんはいいですよね。自分とは全く異なる誰かの役を演じることができるのですから。

役を演じることが少ない人は、比較的いつも自分のままでいられる人ですね。ありのままというか、自然体というのか、とにかく楽そうですね。

けれども、忘れてはならないことが一つあります。それは、どれほどありのままでいようとしても、もうすでに自分は誰それという人物だと思っている時点で、その人を演じているのです。

なぜなら、もしも本当にあなたがありのままでいることができるなら、あなたは自分が何者であるかが言えなくなってしまうはずだからです。

ある一人の人物をあなたが演じないでいれば、あなたはいなくなってしまうのです。本当はあなたという人物はいないからです。そのことをいつも思い出してほしいのです。

それが、唯一の真の救いだからです。あなたが誰かであれば、かならずそこには自分を守らなければならないという恐怖が産まれてしまうからです。

もしも、あなたが誰でもなく、ただ純粋な意識である(これが実際には真理なのですが)と気づいているなら、あなたは一人の人物を演じ続ける自分をただ見る立場でいられるはずです。

そこには、思考も何もなく、ただの気づきそれ自身が在るだけなので、あらゆる一切合財をただ受け止めていることになるのです。

私たちが日夜やっている自分がここにいるという演技は、本当にアカデミー賞ものです。最高の演技者は、その瞬間演技していることを忘れてその中に没入することができる人ですね。

そういう意味から、私たちの誰もが最高の演技者だと言えるのです。いつか演技していたことに芯から気づくときがやってきます。その時まで、最高の演者であり続けるのも楽しいかもしれませんね。

役割を演じる

人が数人集まると、眼には見えませんがそこには人間関係が生まれます。その人間関係を作り、維持しているのは各人がそれぞれに作り出している役柄なのです。

本人が、意識的であろうと無意識的であろうと、必ず何等かの役を演じているということです。たとえ幼い子供であっても、その子の心に自我が目覚めれば、その家族の中での役割を演じ始めるのです。

敏感で聡明な子供であればあるほど、あるがままの無邪気さをそっちのけにして、役割を担うようになってしまいます。それは、その日をなるべく安心して生き抜くための策なのです。

きっとあなたも経験があると思うのですが、ある人と一緒にいるとどういうわけか聞き役になってしまうけれど、また別の人と一緒のときには気づくと話し手になっていたというようなことです。

互いの関係性の中で、そうした役割分担というものが自動的に発生するのです。そうした役割を総合したものが、その人の人柄、あるいは人格を形成していると言ってもいいくらいです。

学校を卒業して、初めて入った会社の社是には、「…仕事が人を作る…」のような文章があったのを覚えています。これは、例えば医師になった人が何年も経験を積んで、はじめて医師らしい風格というか態度が備わっていくということをイメージすれば分かっていただけるはずです。

その人は、言わば医師の役割を患者に対して上手に演じられるようになったということなのです。子供が産まれてしばらくたつと、大丈夫かなと思っていた人でも立派なお母さんになりますね。

彼女は、お母さんという役割を演じることに上達していったということなのです。だから、役割を演じるということは決して無駄なことでも悪いことでもありません。この社会においては、絶対に必要なことと言ってもいいのです。

けれども、役割を演じることだけが毎日の生活のすべてになってしまうと、それはそれで心の中の無邪気な部分が限界を越えてしまうことになります。

子供にとってのお母さんだって、少しは息抜きが必要なのは言うまでもありません。たまには、ご主人と二人きりでデートすることで、恋人の役割に酔いしれることでストレスが解放されるのです。

幼いときに家族の中で役割を演じすぎると、それ以外の役割を見つけられなくなり、社会に出ても同じような役割ばかりを担うことになる可能性が高くなります。

一つの役割ばかりにせいを出し過ぎると、必ず心が消耗してしまいます。あなたは、いろいろな役割を適度に毎日の生活の中で割り振って生きていますか?

自分が日ごろ、どんな役割を背負って生きているのかを、よくよく見てあげることが大切です。そして役割に気づいた人だけが、その役割から抜けるか役割を小さくしていく選択肢を見つけることができるのです。

自由を手に入れるためには?

「自由」という言葉の響きっていいですよね。誰もが束縛されるよりも、自由でいたいと願っているのは間違いのないことです。確実に、自由>不自由 なわけです。

それほどまでに、自由でありたいと願っていながらも、実際のところ人生って不自由だなあと感じている人が大勢いるのも事実なのです。

なんでそんなことになってしまうのでしょうか?その理由はいたって簡単、私たちの心というのは、自由を求めているにも関わらず、一方でその自由を恐れてもいるのです。

自由を恐れるとはどういうことでしょうか?もっとも分かりやすい事例をあげるとすると、学校で友達とうまくやっていくことができずに、イジメに合っていたりして一人孤立している子がいたとします。

その子にとっては、ある意味束縛されている授業中よりも、自由にしていられる休み時間の方が苦痛なのです。授業中は、誰もが授業に集中していなければならないので、孤立していることを意識せずに済みます。

その反面、自由でいられる休み時間ともなると、自分の身の置き場がなくてどうしていいか分からなくなってしまうのです。実際にイジメに合うのだって、そういう時がほとんどなのです。

もう一つ、例を示してみます。自分がまだ未熟だと思っているときに、全く何をしてもいいという自由を与えられるよりも、ある程度の指針を示してもらって、それに沿って学んで行く方が安心できますね。

つまり、これも自由よりもある種の方法や考え方、あるいはルールを与えられてその枠の中で生きていく方が安心できるということなのです。

現実的な話しとして、幼いころに作ってしまった自己防衛システムに乗っ取られて、自由な自己表現を抑えつつ生きている人は、決して自由であるとは感じていないはずなのです。

とても不自由な毎日を送っていると自覚しているのに、自由になるためにはとてつもなく大きな恐怖が立ちはだかっていると誤解しているために、自由を求めながらもいつまで不自由でいてしまうのです。

あなたはどのくらい、自由を強く求めているでしょうか?安心や安全ということと、自由でいられることをトレードしていませんか?もしもそうだとしたら、人生を台無しにしている可能性が大です。

そのことに気づいて、一刻も早く恐怖や不安、あるいは罪悪感といったネガティブな感情から逃げることなく、率先してそれを十分に感じようとすることです。

あなたが自己防衛をやめればやめるほど、その分だけ本当の自由を手にすることができるのですから。そうして手に入れた自由は、かけがえのないものとなるはずです。

驚きを持って生きる

毎年、大晦日の夜と正月だけは、普段一緒に食事をすることがあまりない両親と食事を共にするので、前もって簡単なカードマジックを練習しておいて、披露してみたのです。

すると、各人の反応がバラバラなのが面白い。父親は、「ああ、それ前にテレビで見たことがある。」と言い、家内は何とかしてマジックの種を暴こうとし、母親は純粋に驚くという反応でした。

どの反応も予想していたものですし、どれがいいとか悪いというものではありません。勿論、マジシャンを演じている私としては、とりあえずびっくりしてもらえたら、それが一番嬉しいわけです。

私自身の中にも、きっと様々な反応をする心の断片があるだろうことが分かります。それは見たことがあるという反応も、種を暴こうとする部分も、ただびっくりする心もあるのが分かります。

それ以外にも、マジックなんてつまらないという反応をする部分もあるのでしょうね。その状況によって、どのような反応が表面化することになるかが決まるはずです。

けれども、どのような反応をするかというのは、自己防衛の強さと関連があるのです。防衛が強ければ強いほど、驚いている自分を隠そうとします。なぜなら、驚くということは、相手にコントロールされるイメージがあり、危険だからです。

一方、単純に驚くというのは幼い子供のような反応ですが、それは無防備な心の状態であるということが言えますね。それが、最も愛に近い心の状態なのです。相手と競っている自分がいないからです。

どんな反応も当然間違いではありませんが、もしもあなたが親しい家族にマジックを披露されたら、どんな反応をするような気がするでしょうか?

家族との人間関係が愛に溢れていればいるほど、子供のように驚かされる自分を楽しむことができるでしょうね。それは、人生そのものについても言えることです。

人生から驚きが失われてしまえばしまうほど、味気ないものになってしまいます。愛は、いつもあらゆることを驚きを持って見ることができるはずだからです。

あなたは、生き慣れた毎日の人生の中で、どれだけ驚きを感じて過ごしているでしょうか?驚く心はいつも新鮮さを保っていますし、瞬間瞬間を楽しんでもいるのですね。

無邪気さと社会性の融合

最近、健康のために俗にいう青汁というものを飲むようになりました。私が利用しているものは、粉末状のもので、それを水かお湯に混ぜてゴクゴク飲むわけです。

健康にいいからという理由だけで、まずいものを我慢して飲むことができない私は、青汁の中でも決して不味くないものを選んでいるために、ごく普通に毎朝服用できています。

その青汁の粉末がお湯よりも比重が重いようで、スプーンで何度混ぜてもしばらく経つと粉末が下に沈んでしまうため、なるべく早めに飲んでしまわなければならないという不便さがあるのです。

比重を軽くして、あっという間に水に溶けてくれるように工夫してくれたら、もっと楽に飲めるのですけれど…。それでも、まずくて飲めないと思っていたのに飲めることが分かったので、とてもありがたいと思っています。

ところで、水と油という表現があるように、油を水の中に入れていくら溶かそうとしても油が水をはじくし、比重がかなり違うために、決して混じりあうことがありませんね。

そのため、その二つはコップの中で上下に真っ二つに分離した状態にすぐになってしまうのです。人の心の状態も、この水と油のようになってしまっている場合があるのです。

通常、私たちの心の中には、純粋で無邪気な心の部分と、理性的で社会に順応しようとする大人っぽい部分とがあり、バランスのとれた人はその二つがうまく混じりあっているのです。

つまり、お湯に上手に溶け込んだコーヒーや紅茶のようなものですね。時間が経っても分離することがほとんどない状態ということです。どちらか一方が、他方をそれほど、はじこうとはしないでいる状態とも言えます。

そういう人は、プライベートな場面と職場などの社会的な場面において、あまり違わない人格で過ごすことができます。無邪気さと社会性が上手に混じりあっているからです。これが、成熟した心の状態です。

一方、水と油のように心の中の両者が分離してしまっている人の場合は、プライベートでは無邪気さが前面に出る反面、職場などでは隙のないきちっとした人物となり、その違いが顕著になってしまうのです。

そしてこの場合、無邪気さだけが幼さの象徴ではなく、大人っぽい社会性のある面を作り出しているのも、実は幼い心の部分だということに気づく必要があります。

水と油のように分離した心を作ってしまったのは、大人ではなくて幼いときだからです。どちらも幼稚なのです。大人の仮面を被った子供が社会で生活していると言えば分かりやすいかもしれませんね。

外で頑張り過ぎるあまりに、家ではその反動として幼さが満載状態になるのです。そして、その反転が毎日繰り返されることになるのです。

どちらの自分も過去の自分の心であると理解して、今この瞬間の自分がそれらを一つひとつ受け止めてあげることです。そうすることで、過去に生きている両方の心に乗っ取られずに済むようになるのです。

物語は思考の中にしか在り得ない

私たちは、物語が大好きなのです。その証拠にお金を払ってでも映画を観に行ったり、DVDを借りてきて見たりするのですから。テレビが大好きという人も沢山いますね。

物語というのは、時間の流れと共にストーリーが展開されます。そこに、自分の人生という物語を重ねて見ることによって、より一層その物語に現実味が帯びてきて、釘付けにされたりするのです。

作り物の物語であっても、本当にあった物語であっても、それを疑似体験することで、普段の生活以上の感情が出てきて、深く感動したり悲しみの涙に濡れたりできるのです。

ところで、物語を物語たらしめているものは何でしょうか?それはあなたの心の中に発生する思考です。思考が物語を生み出し、思考が物語を展開させ、思考が物語を継続させるのです。

どんなにすばらしい物語であろうとも、ひどく悲惨でむごたらしい物語であろうとも、一たび思考を停止させてしまえば、そこには物語が在り続けることはできないのです。

つまり、どんな物語もあなたの思考の中でしか、生き延びることができないということです。このことは、何度繰り返してでも腹の底から分かって欲しいことなのです。

なぜなら、これこそが最大の救いだからです。もしも、あなたがこれまで生きてきた自分の人生を思い返して、こんな人生なんてろくでもない、と感じているのなら、それはあなたの思考の中でのことなのです。

思考の中身は事実ではありません。思考の勝手な解釈に基づく物語でしかないからです。あなたが、延々と続けてきた思考をほんの瞬間でも止めることができたら、きっとあなたは心から安堵の時間を感じることができるはずです。

人は大抵そういう経験をしているのです。辛いなあと感じている毎日の中で、あるときふと何だか気持ちが楽になっているという経験をしたことがあるはずです。それは、いつものお決まりの思考から抜けたときなのです。

私たちは、物語が大好き過ぎて、問題が発生すると物語の中でその問題を解決しようとばかり躍起になるのです。でも、いつも思ったように解決できるわけではありませんね。だから苦しむのです。

その習慣を一旦脇に置いて、困った問題が目の前に現れたときに、思考を鎮静化させてみるのです。そうすると、問題は解決されるのではなくて、問題が物語と共に消えてしまうのです。

これ以上の救いは他にはありません。そしてさらに、本当に物語とは思考なのだということに気づいていられると、自分の人生を物語の一つとして捉えることができるようになるため、何が起きても深刻になることがなくなるのです。

常に新しい自分を生き始めることができる

今年に入ってから、どうも一種の睡眠障害のような状態が続いています。何か心配ごとや気になることがあるというわけでもないのに、なぜか眠ってもすぐに目覚めてしまうのです。

記憶している限り、人生で初めての睡眠不足が続いていると言ってもいいくらいです。寝つきが悪いというのでもなく、ただすぐに起きてしまうのです。

眠れないなあと思って、もう寝るのをあきらめてしまい、いろいろな実験をやったりしているということもあって、余計に寝れなくなっているということもあるかもしれません。

どうでもいい睡眠不足の話しはこれくらいにしておいて、私たちは眠っている間以外は、ずっと人生を通して自分の意識が連続していると感じていますね。

夜寝てから明日の朝起きるまでの間、一応意識が休止はするものの、また明日は寝る前の意識の続きが始まるということを、人生を通してずっと重ねてきたと思っています。

だから、夜眠る前には一区切りとして、その日にあったことを思い返してみたりするわけです。そんなことは何もせずに寝てしまうという人も勿論いるでしょうけれど…。

けれども、本当の私たちの意識というのは、こうした時間の流れの中にあるのではないのです。その反対に、純粋な意識という土台の上に時間の流れが現象化しているのです。

私たちが意識だと思っているのは、実は思考であって、その思考は常に時間の流れと共にあるものなので、自分が時間という流れの中で生きる連続した存在だと思い込んでしまっているのです。

あなたが一晩寝ると、新しいあなたが再生するのです。もしも、あなたがそれをそのままにしているなら、時間の流れよりも今を意識した人生へと変えることができるはずです。

しかし、私自身も含めて多くの人々は、知らないうちに昨日までの事柄を引きずったままの状態で今日再生してしまうのです。それが、過去に生きていると言われる所以なのです。

本当は眠る必要もなく、毎瞬ごとに私たちは再生し続けているといってもいいのです。だから、いつどんな状況であろうとも、まったく新しい自分を生き始めることが常に可能なのです。

それは本当にすばらしいことですね。