純粋な愛と分離からくる恐怖について

もしもあなたが、特定の誰か一人を愛しいと感じ、その人を愛しているに違いないと思っているのでしたら、その人に執心しているなら、それは残念ながら純粋な愛ではありません。

というのは極論かもしれませんが、本当のことです。けれども、それが悪いということをいいたいのではないのです。そもそも純粋な愛について、私たちは頭で理解することはできてもそれを体験することは難しいのです。

この世界は、分離という現象をベースに出来上がっています。地球は太陽とも分離していますし、あなたはお父さんやお母さんからも分離していますね。

この分離しているという概念が純粋な愛を隠す張本人なのです。それは、太陽の光を遮る厚い雲のような役目をしており、光が届かない部分を恐怖と呼ぶのです。

つまり、分離による恐怖がこの世界を形作っているということです。いいとか悪いという話しではなく、そのような現象がこの世界を作っているということなのです。

逆に言えば、純粋な愛とは分離のない世界、それはもうすでに世界という言葉が通用するようなものではありません。敢えて言えば、このブログで何度も言っている全体性ということです。

全体性とは分割することのできないものです。全部は常に全部であって、部分をいくら集めても全体にはならないのです。

したがって、純粋な愛だけでは私たちが興味を抱くどんな物語も成立し得ないということです。分離からくる恐怖があっての物語なのです。

心の中で分離を信念としている自我にとって、物語は欠くことのできないものであり、物語とは自我のことだと言ってもいいくらいなのです。

だから、物語の中に没入することは自我に熱中することであり、物語を観る立場にあることこそが、自我を含めたあらゆるものを受け止めることになるのです。

最後に一つだけ、自我の悦びは興奮であって、全体性の悦びは静寂なのです。