退屈から逃げない その2

昨日のブログで、退屈は真実への大切な入口だということを書きました。けれども、私たちは一般的に退屈しているなんて勿体ない、もっと活動的に人生を生きるべし、と教えられて育ったのです。

誤解のないように、このことについてもう一度書こうと思います。何をするにも気だるくて、やる気が起きなくてじっとしていても、人は退屈してしまうはずです。

そんな怠惰な毎日を奨励しているわけでは決してありません。ここでの要点は、ただ退屈から逃げないという、その一点なのです。

自分の気持ちに正直に、日々を活動的に生きることはすばらしいことです。他人から見ると、とても忙しそうに見えたとしても、心が充実していればいいのです。

過去と未来へと思考により流されてしまう代わりに、今この瞬間にできるだけのエネルギーを向けていられるのなら、それは本当に満たされるはずです。

そこには、退屈という恐怖から逃れようとする要素はないはずです。人間のタイプによって、より動的な活動的な人と、その逆により静的な人がいるものです。

したがって、その人の人生がどのように他人の眼に映ろうが、大切なことは退屈から逃げようとすれば、真実への気づきは延期されるだろうということなのです。

何かに一生懸命取り組んでいるとき、私たちは防衛という思考からしばし離れることができるのですが、残念ながらそれは一過性のものに過ぎません。

何もすることがなくなって、手持無沙汰がやってきたときには、その退屈から逃れようとして誰かにメールをしたり、テレビを見たり、本を読んだり、出かけたりして時間を潰そうとするのです。

ときには、特別する必要があるわけでもないと思えたときに、何をするでもなくその退屈の中に自ら入って行ってみて下さい。何ともイライラしだすかもしれません。

その時にチャンスがやってきます。イライラするのは、思考の中にしか活躍の舞台のない自我が刺激を欲して右往左往している瞬間なのです。

退屈だ~と叫んでいる張本人を見つけてみようとすることです。そして、そこには本当は何者もいなかったということに気づくはずなのです。自我とは、所詮そういうものなのですから。