極端は極端を生む

人の心というものは、決して一枚岩ではありません。大抵は、相反する主張があって互いに対立していたりするものです。右がいいというものがいれば、左だと主張するのです。

好きという思いがあれば、その影で嫌いという気持ちがあるのです。ただし、一方は心の奥に隠されてしまって片方だけしか自覚していないということが多いのも事実です。

だからこそ、気づいていただこうとしてこんなブログを書いているわけですが、そんなことは分かっていると思いつつも、実はすぐにこうしたことは忘れてしまいがちなのです。

そうして、都合のいい自分の側ばかりを優先して使おうとするのです。人に好かれる性格の部分を全面に出して、逆の部分は抑圧されてしまうということがあるのはそのためです。

元々物静かで大人しい子供であっても、その奥にはその反対に活発な部分だってあるのです。そして、人が人生を清々しく生きるためには、適度に相反する両方の自分を使ってあげる必要があるのです。

仕事に行って頑張りたいという気持ちがあれば、必ずその逆の行きたくないという思いも持っているのですから、たまには仕事を休んであげるということでバランスが取れるのです。

ところが、私たちは幼いころからすでに、そうしたバランスを欠いた生き方をするように仕向けられてしまうのです。なぜなら、親の期待に応えようとするからです。

親や社会が自分に望むような自分になろうとして、心のバランスを失ってしまうことが多いのです。敏感で素直な子供ほど、そうした傾向が強くなってしまいます。

そうして、あまりにも極端に走ってしまえば、もう片方が極端に抑圧されることになってしまうのです。それが限界を迎えると、一瞬にしてもう片方の極端へと移行してしまいます。

それが、鬱症状であり、場合によっては極端な形の問題行動として起きてきます。鬱症状になれば、人は身体が動かなくなり、心は無気力状態となり、すぐにそれと自覚できるはずです。頑張るの反対は頑張らないだからです。

反対に自覚できないのが問題行動です。問題行動は、鬱症状のようには明確ではありません。特に身体の症状として表面化させるものについては、単なる身体の不調、あるいは病気という判断をしてしまいがちです。

自分の心や体に関して、不自由さがつきまとうなら、それは問題行動です。それは、何等かの理由であなたが一方の極端を続けてきた結果だと理解することです。