赦しについて その2

昨日のブログでは、結局赦すことによって、自分の心が開放されて穏やかな状態になることができるということを説明しました。赦すことは幸せへのパスポートだということでした。

ただし、赦しと一口に言っても注意しないといけないことがあるので、それについて説明してみたいと思います。

一般的に赦しと言った場合、それはエゴの赦しのことを意味しているのです。それはどういうことかというと、相手には確かに罪があるということを認めておいて、従って罰を受けるに値するのだけれど、その上で自分の寛大な心で赦すというものです。

実はこれは防衛の一種なのです。寛大な心で罪を赦すことで自分の価値を高めようとするエゴの作戦なのです。こういう防衛は自覚としては、本当に赦したということになってしまうため、非常に面倒なことになってしまいます。

真の赦しであれば、もう何のわだかまりも残っていないのですが、エゴの赦しの場合には、防衛することが目的であるため、何かの理由でそのことが防衛の意味をなさなくなった場合に、やっぱり赦すわけにはいかないというのが浮上するのです。

もっとひどいエゴの赦しもあります。例えば、取引の代償として赦すということをする場合です。損害賠償を請求して、それを取得したことによって赦すなどですね。こういった赦しは絶対に幸せへのパスポートにはなりません。やはりエゴの防衛であるだけです。

実はエゴというのは、怖れや怒りなどの感情をベースにして自分を守ろうとする意識のかたまりですので、そこには愛がないのです。ですから、実質的にはエゴは真に赦すということができないのです。騙されてはいけません。

このことを充分に理解しておく必要があります。エゴは自分をヒーローのままでいさせるために、つまり防衛をし続けることで自分を存続させようとする、まさにそのためだけに相手に罪深いと思えるようなことを投影としてさせるのです。

ですから、エゴは決して赦すことはしません。本当に赦してしまったら、もう防衛する必要がなくなってしまうからです。赦さないという状態を維持することによって、傷つけられたとする自分を守ることができるのですから。

本当の赦しは、そこに愛が必ず関わっています。相手の言動には元々罪などないとして赦すということです。罪があるように思えるようなことでも、それは結局自分の心の奥にある抑圧されたものを投影したものだということです。

そのことを思い出すことによって、エゴが撤退して愛が残ることになり、自然と赦しが行われることになるのです。