赦しについて その3

赦すとは、無防備になることであり、赦さないとは傷を負ったと思っている心を防衛し続けたいということだという説明を昨日のブログでしました。

今まで生きてきた中で、これは絶対に赦せないとか、もうあれはどうでもいいや、と思えることなど、いろいろあると思います。自分の場合には、幸運にもあの時のあの人の言動は赦せないというものが記憶の限りではないのです。

それじゃあ、完全に赦しが終わってしまっているのかと言えばそうでもありません。例えば、ほんの些細なことでイラっときたり、相手に何か言ってやりたい気持ちになることは時々あります。

こういうのも、実はその瞬間相手を赦してはいないのではないかと思っています。ただ、多くの場合、赦す赦さないと言った場合にそのターゲットとなる事象は過去に起きたことですね。

過去のことを思い出して、ふざけるな!と攻撃的な気持ちがよみがえってきたりするわけです。どうして、あの時にもっとこんなふうに言い返すことができなかったのか、自分を悔やんだりするのですね。

つまり、赦せないよ、として生きている人は、過去に生きているということを理解する必要があるのです。過去に捉われている、過去をひっぱってる、と言ってもいいかもしれません。これが、防衛したがっているエゴの作戦なのです。

現在自分を守らねばならないような事態がさほどないとき、エゴは守るためのネタを過去に探しにいくのです。いつまでも、いやなことが頭から離れないという経験をしたことはないですか?これはまさにこのことが起きているのです。

あなたは赦せない、赦したくないと思っている過去の事象がどのくらいありますか?沢山あればあるほど、エゴの策略に乗せられてしまってるということが言えますね。それは過去の内容がどんなことであっても例外ではありません。

過去から逃げてるうちは、過去に生きているのと全く同じことです。過去を意識してしまってるわけですから。一旦過去を振り返り、逃げずに真正面から見つめることができたら、後はもう切り捨てましょう。過去などないとして。

つまり、赦すということは過去を手放すということです。エゴの自分は過去が大好きですから、それに対抗するために、まず赦したい気持ちを満々にしましょう。これは決意するだけで可能です。そして、赦したい気持ちになったら、あとはそれを自分の心の中の愛の部分に差し出せばいいのです。