今この瞬間と丁寧に向き合う

かつて、「ながら族」という言葉があったのをご存知でしょうか?ラジオや音楽を聴きながら勉強したりするといったような人のことを指す言葉です。

とりわけ、そうやって何かをするときに、それとは別の事をしながらでないと逆に集中出来ない人のことを揶揄して言った言葉だったと思います。

食事をするときにテレビを観ながらとか、クルマを運転しながら音楽を聴くなどは、そうやってよりリラックスするためであれば、それは「ながら族」とは呼ばないはずです。

いずれにしても、私たちはみな、ある程度はいくつかのことを同時にすることができる能力を持っていますね。

私が知っている限りでは、特に女性の場合のほうがそういうことが得意だという印象を持っています。例えば、掃除をしながらマニュキュアを塗りながら、彼とケータイで話すとか。

目玉焼きを作りながら、味噌汁を火にかけ、ご飯をよそったりと、家庭のお母さんなら大抵はその程度は余裕で同時処理をしていると思います。

男性は、意外にその辺が不器用で、私などは何か一つ調理をしていると、それ以外のことがまったくできなかったりします。

仮にいくつかのことを同時に行ったとしても、必ずそのうちのどれか一つがメインとなって、それ以外のことが疎かになってしまいます。

それは日常的な生活の中ではやや不便かもしれません。けれども、考え方によっては器用貧乏という言葉もありますね。

少し話しがずれますが、本来、今この瞬間自分が何をやっているのかということに意識を集中し、そのことを丁寧に実行することが大切なのだろうと思うのです。

それは、思考に乗っ取られる代わりに、思考の主人として今を目撃しつつ生きるということに繋がるからです。

大事なことは、何をしたかでも、どれだけしたかでもなく、どれくらい丁寧に今と向き合うことができたかなのでしょうね。

内側の種を見ること、中の自分を見ること

確か、osho の言葉だったと思いますが…

文中の次の言葉に惹かれます。

「この存在は、あなたを通してある運命を成就しようとしている。」

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毎日、 起きては働きに出かけ、わずかの金を稼ぎ、夜には眠り、夢を見る。
朝になるとまた、車輪は回り続け、しかもどこにも到達しない。
最後には死だ。
それなら、なぜ待つ。
なぜこの無意味なことを抹殺してしまわない。
なぜ自殺しない。
なぜそんな無意味なことのために、それほど心配したり、
負担を感じたり、やたら不安になったり、苦悩したりするのか、と。
これは倫理的な結論だ。

未来を望めば、意味はない、ということを理解することになる。
しかし、もし あなたが、本当に意味を求めているなら、
その方法は、種を見ることだ。
そして、その種とは、今ここだ。
だが思考(マインド)は未来を見たがる。
その方が易しい。
種を見ることは難しい。
それこそがサダナ(修行)のすべてだ。
それこそが骨の折れる努力のすべてだ……種を見ることが。

なぜなら、種を見ようとすれば、
別の質の視力が要ることになるからだ。
第三の目が必要になる。
通常のこの目は、その殻までしか届かないからだ。
だが、不可視のもの、秘められたものは、その中に隠されている。
この目は、深くは届かない。
それほど深くを見ることはできない。

洞察力のある、 今の今、種が何を運んでいるかを
見抜き得るような異なった質の目が必要なのだ。
外側を見たら、見抜けない。
視線は肉体に、種の殻につき当たるからだ。
もし本当に種を見たかったら、内側を見なさい。
そうなれば、もう殻は問題ではなくなる……
内側では、 あなたは種でもあるからだ。

あなたはこの存在に属している。
あなたはそこから生まれて来た。
この存在は、あなたの中にひとつの青写真を持っている。
この存在は、あなたを通してある運命を成就しようとしている。

内側を見なさい。
そうすればもう外の殻など問題ではない。
あなたは既にその中にいるのだ。
これが瞑想の何たるかだ。
内側の種を見ること、中の自分を見ることだ。

思考の届かないところに真実がある

この世界では、実に様々な物事がただ起きては消えてを繰り返しているだけなのです。ただそれだけのことなのに、そこに行為者と行為をでっち上げて、そこに意味を見出そうとするのが、思考です。

行為を行う行為者の代表選手は、他でもない「私」です。そして、「私」はこの世界の中に確かにいる、そう信じているのも思考によるものです。

思考そのものには、良いも悪いもありません。実際、思考には何かを起こすようなパワーなど、これっぽっちもないのですから。

思考は、単なる解説者なのです。その解説を聞いていると、確かに面白おかしく感じさせてくれることもあるでしょう。

解説者が時には、コメンテーターにもなるし、評論家になることもあるかもしれません。けれども、起きている事象にどれほどの解釈をしたとしても、それと起きる事象とは関係ありません。

野球の試合は、アナウンサーや解説者がいなくても、何の支障もなく行われるのと同じことです。思考とはそういうものです。

したがって、例えばあなたが何か大切なことを思いついたとしても、それは単に思いつくという事象が起きただけで、あなた自身に思いつくパワーがあったわけではありません。

それを思考は、あたかもあなたがあなたの力で思いついたのだと解説してしまうのです。それを、信じてしまっているだけなのです。

私たちは、思考至上主義に知らず知らずのうちに、陥ってしまっているということです。思考が止まれば、物事を解説するナニモノもなくなり、ついでに「私」も消えてしまいます。

思考がなければ、人生という物語すらなくなってしまいます。日頃私たちが執着し、喪失することを恐れているものも、一瞬にして消えうせてしまうはずです。

本質的な平安とは、思考の中には決してありません。思考は、いつも騒がしくて、落ち着くことができないような構造になっているからです。

勿論、真実も思考の外側に広がっているのでしょうね。思考が自らの限界を知り、真実に白旗をあげるとき、ようやく真実に抱かれることになるはずです。

未来というすばらしい贈り物

私にとって、この2012年という年は、何となく「終わっていく」年なのかなという感じがしています。それがマヤ暦の最後の年であるということと、関係があるのかどうかは分かりませんが…。

何かが始まれば、いずれは終わるのですが、終わるということは、何かの始まりでもあるのですから、今年は「始まる」年であるとも言えます。

こうしたことは、何にでも当てはまりますね。人との出会いがあれば別れがあり、また別れがあれば新しい出会いが訪れるのです。

生まれたものは死に、その死によってまた新たな生が芽生えることになるのです。こうして、物事は連綿として続いていくだけです。

本当はただそれだけなのに、私たちは自分に都合のいいものを喪失することを受け入れられずに、そうした変化を恐れてしまうことになりがちです。

そこにこそ、過去への執着と同時に未来への不安に縛られてしまう危険が横たわっているのです。それが葛藤を作り出し、苦悩の中に閉じ込められてしまう原因となるのです。

私の場合、来年から自分が何をしていくことになるのか、今のところさっぱり分からない状態でいます。ともすると、不安に巻き込まれそうになることもあります。

そのときに、不安は不安としてしっかり逃げずに見つめてあげることが大切です。不安と一つになると、不安は消えてしまうからです。

そうすると、終わっていくことに感謝しながらも、これから始まることをすばらしいプレゼントして、歓迎するという気持ちになれるのです。

ホラティウスの言葉で次のようなものがあります。いつも心に留めておきたいですね。

『未来がどうなるか、あれこれと詮索するのをやめよ。 そして、時がもたらすものが何であれ、贈り物として受けよ。』

自分を守ろうとする限り、平安はやってこない

ほとんど個人セッションの予約が入らない毎日が続いていたのですが、珍しく昨日は初めてのクライアントさんのセッションが三つ続けてありました。

それで改めて感じたのですが、人は自分をいかに自己防衛することで手一杯になっているか、ということに気づいていないということです。

自分を守り続けることが、人生の主たる目標であるということに、どれだけ気づけるかということが、勝負のような気がするのです。

というのも、考えてみるまでもなく、より幸せになることを目指すということにしたって、それは結局自己防衛であるとも言えるからです。

表向きは、防衛のようには見えなくても、実質自分のことを自分で守らねばという、エゴの指導に従った生き方をしているのですから。

自己防衛こそが、エゴの使命、つまりエゴの存在理由に違いありません。そしてそれは、コントロールを意味します。

自分というエゴがどのようにして、自己防衛をしようとするのかという、詳細な策略にしっかりと目を向けることです。

そうして初めて、日々どのような方法でどれだけの労力と時間を使って自己防衛しているのかが明確になるのです。

それと同時に、一体全体なぜそれほどまでに自己防衛に全精力を使おうとしてしまうのかということにも気づく必要があります。

その理由は、自分の存在価値に気づいていないからだと言えます。けれども、それはあくまでも表向きの理由なのです。

本当の理由は、ただただエゴを使い続けようとする、エゴを存続させるための作戦であるということです。

自分のために生きる代わりに、他の誰かのため、他の何かのために生きるとしたら、殊更自己防衛にエネルギーを使わなくなり、それは結局エゴの衰退へと向かうことになるのです。

このことは、どうしたら自分はより幸せになれるのだろうかと考えている限りは、到達することができない境地であることは間違いないでしょう。

必要なことだけが起こる

5、6年前にクルマを買った時には、老いてきた両親がゆったりと寛いで乗っていられるようにと、日本車としては比較的大きなミニバンを選択しました。

後部座席で足を伸ばして腰掛けられるし、背が高くて見晴らしもいいのですが、クルマの床が一般のものと比べて高いために、ちょっと乗り降りに手間取る感じでした。

それから時が経って、両親の高齢化が更に進んで、最近では以前よりも乗り降りが大変な感じが見ていてわかるようになってきていました。

そこにもってきて、母親の骨折があって、いよいよ両親にとってもっと乗り降りが楽にできるクルマが必要となったように思っていたのです。が、問題は金銭面です。

そんな中、じつは、数週間前に自分の不注意で、クルマの脇腹をイヤというほどに鉄柱にぶつけてしまい、昨日ディーラさんのところで修理の見積もりをしてもらったのです。

その結果、何と50万円くらいかかるということが判明してしまい、やや茫然自失気味になって戻ってきたのですが、その時にもっと床の低いクルマに買い替えた方がいいと思っていたことを思い出したのです。

けれども、買い換えるにしても先立つものがないし、修理するにしてもとても高額という、如何ともしがたい現実が「デン」としてあることに気づいてしまいました。

こういうときには、急いで何とかしようとするのではなく、ただ状況を見守るということも必要なのですね。ただ、今までの自分だったら一刻も早く修理しようとしただろうなと思うのです。

見た目に大怪我したようなクルマに自分が乗るということが、許せなかっただろうと感じるからです。その辺は、随分と悠長になったものだと思います。

そこはある程度自分の中でクリアしたようなのですが、あとは両親のために買い換える以外に何か解決するような事態が起こることを、静かに待ってみたいと思っています。

自分に起こることは、自分が望むこととは限らないですが、自分にとって常に必要なことが起こるということへの信頼は、ピンチになっても失くさずにいられるようです。

無価値感など恐くない

私がセラピストという仕事をするようになって、最も驚いたのは「自分の存在価値」に気づいていない人が沢山いるという事実でした。

存在価値に気づかずに大人になってしまうと、その代替として客観的な存在意義というものを用いて、何とか自分を取り繕おうとします。

ところが、この存在意義というのは、他人にとってどれほど有用かということで判断される、非常に曖昧でしかも一過性の評価によっているものに過ぎません。

したがって、ひどい自己犠牲を強いてまで、毎日毎日存在意義を保つために頑張り続ける人生に陥ってしまうという事態になるのです。

残念ながら、存在価値というのは、自分独りでそれを体得することはできません。幼少期に、周りにいる大人から「受け入れられた」という感覚を繰り返して体験して、初めて得ることのできる感覚なのです。

それでも徐々に、大人になってからでも自分で自分を認めてあげる習慣をつけていくことによって、存在価値を感じられるようになっていくことは不可能ではありません。

けれども、一つよくよく考えてみる必要のあることがあるのです。それは、自分には価値がないという感覚を何とかしようとする理由は、それだけ自分に関心を持っているからなのです。

関心のない対象を何とか価値あるものにしたいなどとは、思わないのは明らかです。つまり、無価値感の苦悩とは、最大のエゴなのです。

仮に、自分自身のことよりも他の人や他の何かにより深い関心を持つことができるなら、自分の無価値感などどうでもよくなるはずなのです。

無価値感の苦しみは、エゴの最大の作戦だということに気づくことです。もしも、誰かのために、何かのために生きることができるなら、その人は無価値感から解放されることになるのです。

「あなたは私」ということの本当の意味

自分とは身体ではなく、意識だということが明確になってからしばらく経ちますが、それでも日々の生活に揉まれていると、自分をまだ身体だと思っている部分が色濃く残っていることに気づかされます。

それはなかなかしぶとい思い込みなのでしょう。誰でも、幼いころからずっと自分のことを身体だと妄信してきたのですから。

身体であると同時に、意識でもあるという矛盾に気づいている人も多いかもしれません。それが次第に、身体ではなくて意識そのものだとの気づきがやってくるのです。

けれども、初めのうちはどうしても自分は身体という「着ぐるみ」の中にいるという感覚が抜けないものです。

身体の中から、意識である自己が外の世界を眺めているというイメージが、私の場合には強いようで、今だにそれが抜けないでいます。

それが時として、意識という摩訶不思議なモノが物質である身体の内側に宿っているなどというはずはないということが直感的にやってきます。

そうして、本当の自己とは純粋な意識であり、時間も空間も身体もその意識という場の中で現象化しているに過ぎないということに気づかされます。

自分のことは、なるほどそうかと分かるのですが、他人のことについては、やはり身体という物質としての対象として捉えているようです。

なぜなら、目の前に○○さんがいると信じて疑わないのですから。けれども、目の前にいるのは単なる身体に過ぎません。

その身体の中に○○さんの意識があるはずがないのは、自分の意識のことを見れば明らかなのです。

それなら、目の前にいる人は誰なのでしょうか?それは誰でもないということですね。目の前にある身体は、そこにある椅子と同じ物質に過ぎません。

代わりに、その人の意識とは、時空を越えた私の本質と一つものであるということに気づくことになるのです。それが、「あなたは私」ということの本当の意味です。

生と死を一つものとしてみる

私たちは誰でも、死に対して恐怖心を抱いて生きています。そのために、日頃から死と向き合うということを避けているのです。

苦しみが続くくらいなら、死んだほうがましだと思っている人も多くいるのでしょうけれど、それも実は死を直視していないために、そのように感じるとも言えます。

なぜなら、苦しみの本質とは、死への恐怖から逃避しようとして発生するものだからです。私たちは恐いから直視しないと思っていますが、直視しないために必要以上の恐怖を持ち続けるとも言えるのです。

死をいつも身近に感じつつ、人生を生きれば、生そのものに対する意識も変化するのです。それは、暗闇を知っているからこそ、光のすばらしさを感じられるのと同じです。

生と死をバラバラにしてしまうこと、つまり生だけを見て死から目を逸らすというのは、都合の悪いものを否定して、なかったことにするエゴのご都合主義です。

考えてもみてください。人物としての自分がこの先ずっと死なないでいるとしたら、それこそ不気味なことになってしまいます。

この現象界という世界の秀逸なところは、自分も含めてあらゆるものが必ず滅びることになっているということです。

不変でいられるものは、この世界には何もありません。すべてが死と隣り合わせになっているのです。それがある種の魅力にもなっていると思うのです。

死への恐怖は、すばらしいことに死そのものによって消えてしまうのです。恐怖というのは、それと完全に一つになることによって、消滅するということです。

生と死の間を行ったり来たりすることができるのは、私たちの本質である純粋な意識が厳然として在るからでもありますね。

真実は多面的に表現される

昨日のブログでは、物事には両面があるということを書きました。そして、そのことは私たちが真実と呼んでいるものにも当てはまるのです。

というより、真実について言葉を使って説明しようとしたら、両面どころか多面的な表現ができてしまい、その多くは互いに矛盾するのです。

例えば、近年の脳科学では私たち(の脳)には自由意志はないということが、通説になっているようです。まだ、厳密に証明されたわけではありませんが…。

そのことは、世界中の賢者と言われた人たちも同様に言っていることです。したがって、それは真実なのだろうと考えてもよさそうです。

でもその一方で、瞑想をするべきであるとか、真剣に自己探求を続けていく努力を惜しんではいけないという言われ方もするわけです。

これは、自由意志がないということと矛盾するように感じます。自由意志がない我々に、何をどう働きかけたって、結果が変わるようなことはないはずだからです。

けれども、実際には努力すべきときは努力する必要があるというのも真実なのです。自由意志がないということは、すなわち何が起こるかについて我々には何の影響力もないということを意味しますね。

それなのに、愛に溢れた心を持つ人々は、自らの命を顧みずに他人の命を救おうとまでするわけです。

何が起こるのかは、決定しているとしたら、なぜそれほどまでに他人のために尽力しようとする人々がいるのか疑問です。

きっと、自己防衛に奔走するエゴの影響から開放された彼らの心の中には、慈悲とか自愛のエネルギーが盛りだくさんになっているのでしょう。

覚醒したイエス・キリストが天国に行ってしまわずに、二千年の時を越えて、奇跡のコースを私たちに提示してくれるのも、そうした慈悲の心の成せるわざなのだと思います。

真実は本当に謎に満ちていて、興味深いですね。