人類の壮大なドラマを楽しむ

「事実は小説より奇なり」という諺があります。この世界で実際に起こる出来事というのは、作り物である小説よりもかえって不思議で、波乱に満ちているというような意味ですね。

けれども、私たちの本質である真の自己の視点から見れば、この世界という現象界で起きることこそがリアルな物語であるということが分かってきます。

人物としての私たち一人ひとりが、そのリアルな物語の中にしっかりと組み込まれていることを実感せずにはいられません。

人類が経験してきた歴史という無数の物語があったからこそ、今の自分や自分の人生というものが生み出されたのだということです。

たとえば、終戦後まもなく、日本のお隣の国で朝鮮戦争が起こりました。狭いエリアでの戦いのわりには、悲惨きわまりない壮絶な戦いだったのです。

そのとき、アメリカは日本にも参戦しろという圧力をかけるために、サンフランシスコ講和条約によって日本を独立国として認めます。

もしもそのときに、吉田茂首相が日本の参戦を受け入れていたとしたなら、当時の日本の若者が大量に戦死していたはずです。

ちょうどそのころ、私の父は年齢的には20代の若者でしたから、戦死した可能性が非常に高いと考えられます。

そうなったら、私は当然この世にはこうして生きていないわけです。私たち一人ひとりの人生とは、人類が経験した歴史という物語の結果なのです。

誰一人、この世界と言うリアルな物語から独立して存在することはできません。その中にしっかりと組み込まれた一つひとつの構成要素なのですね。

ということは、今日一日自分がどのような人生を生きるかということが、人類の未来の物語に密接な影響を与えることになるのです。

そう思うと、与えられた一つの人生と真剣に向き合う必要があるという気がしてきますが、だからといって深刻に捉えることはありません。

あなたの人生がどんな物語であれ、それがどのように人類の未来を形作っていくとしても、物語は本当のあなたとは別次元のものだからです。

だからどんな人生であろうと、心配はご無用です。安心して、この壮大な人類ドラマを楽しめばいいだけです。

私たちの本質について その2

by gangaji

昨日の続きです。

思考は、それが及ぶ範囲、及ぼす影響ともに、素晴らしいものでも恐ろしいものでもあります。けれどそれは単なる思考にすぎず、あなたの本質を表現する力はない、ということを認める意思があなたにはありますか?

このことを検証してみる気がありますか?もしそうなら、ほんの一瞬、考えるのを止めてごらんなさい。

思考を押さえ込むのではなくて、頭に浮かんだ思考を膨らませ続けるのを拒絶し、思考の上に思考を重ねていくのを止めるのです。

偉大な思考でも取るに足りない思考でも、それを膨らませるのを止めて、それは単に思考にすぎないということに気づいてください。

思考には何ができるでしょうか?思考は体験を定義することができます。経験を区別・分類することができます。経験を生むこともできます。

けれども思考と経験は同一ではありません。思考には始まりがあり、展開があり、終わりがあります。絶対の真実には、始まりも、展開も、終わりもありません。

それは現れたり消えたりもしません。それはいつでもここにあるのです。思考を嫌っているのではありません。そんなことをして何になるでしょう?

思考は存在します。思考は創造性や理解の素晴らしい表現たり得ます。思考を思考であると認めることは、思考が好きだということでも嫌いだということでもありません。

けれども、思考すなわち現実である、という思い込みの鎖から解放されるとき、あなたには、あなたという存在を直接体験する自由が与えられます。

あなたが誰であるか、それは思考によって捉えることはできません。理性は、その源を捉えることはできません。なぜなら理性とはその源の一面にすぎず、全体ではないからです。

その源はあなたです。そして源であるあなたには、あなた自身を源として発見することができるのです。

私たちの本質について

by gangaji

私の師が私に提示してくれたもの、そして私があなたに提示しているもの、それはとてもシンプルです。どんな特別な力を身につけるわけでもありません。

ある特定の精神状態を手に入れるということでもありません。どんな資質の有無とも(たとえそれが温かな、優しいものだとしても)関係ありません。

それは、絶えず、否定しようもなく、抑制のしようもなく、永遠に、すべての一瞬一瞬、一秒一秒、すべての状況、そしてあらゆる精神状態の中に存在するものについてです。

どんなに気高く高尚な精神状態であろうとも、頭で把握できることはすべて、生まれ、存在し、そして死んでいきます。

永久不変にここにあるものは、頭で把握することはできません。それは対象物ではないからです。

ご自分の人生を顧みれば、あらゆる思考、感情、結論、自己定義、あるいは他人の定義についてそのことが言えるのがわかるはずです。

こうしたものはすべて、誕生し、しばらくすると変化し、そして消えていきます。これはいくら強調しても足りません。

おそらくこれは理性にとってこの上ない発想の転換でしょう。つまり、理性で把握できるものはすべて、生まれ、そして死ぬのです。

このことに気づくとき、私たちの本質の永続性について、ほんの一瞬、真の理解を得る可能性が生まれます。

私たちの本質とは、肉体、思考、感情、業績、精神性の高さや低さといった一過性のものとは何の関係もありません。

あなたが自分はこういう人間だと思っているその人には、あなたという存在の真の姿に気づく力はありません。

真実はあまりに大きいのです。あなたが自分はこうだと思う存在、それは、あなたという存在の真実の中で、現れては消えていきます。

本当のあなたはこのことに気づくことができます。あなたにはそれに気づく権利があるのです。誰もそれをあなたに与えることはできませんし、あなたから取り上げることもできません。

それは理性という力のベールに覆われることがあるかもしれませんが、ベールには実は何も隠すことなどできません。

ベールがあるのを見ると、あなたはその後ろに何かがあることを直感的に感じます。ベールの後ろにあるもの、それがあなたの本質の真の姿です。ベールは単に、あなたの最新の自己定義にすぎないのです。

つづく

感情を直接体験する

by gangaji

恐れの根底にあるのは、深い悲しみや傷ついた痛みかもしれません。そしてそれは、物語の必要なしに直接かつ完全に経験することが可能です。

もしもあなたにこうした感情の重なりを最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。

この深淵は、無、空虚、無名と理性が認識するものです。これは非常に重要な瞬間です。なぜなら、完全に何ものでもなく、誰でもないことを進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。

何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験、すなわちあなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。

いったんその防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。

この対峙こそ真実の自己探求によってもたらされる啓示であり、それによってあなたの心の真ん中にずっと隠されていた真実という秘密の宝石が露にされます。

これは非常に大きな発見ですが、あなたはそれを自分で発見しなければなりません。どんな感情も、もしもあなたにそれを深く完全に経験する意思があれば、その中心には、いつも変わらぬ無垢な意識があり、経験するものであると同時に経験されるものとして自らと向き合っているのを発見するでしょう。

この真実をあなたが自ら発見することができたなら、あなたはいわゆるネガティブな感情から逃げ、いわゆるポジティブな感情を求め続けることから解放されます。

そしてまた、本質的に一過性のものを拒絶することも、それにしがみつくこともしなくてよくなります。あなたはあなた自身と本当に出会う自由を得、その出会いの中で喜びを味わうことができるでしょう。

日本の戦後教育について

私を含めて、このブログを読んで下さっているほとんどのみなさんが、敗戦後の生まれだと思います。ということは、みんな同じ教育を受けているということですね。

それは、戦争をやった日本は、軍国主義であって、そのために沢山の日本人が苦しい思いをしながらも死んでいったのだと。

戦争をしたおかげで、死ななくていい大切な命が沢山失われることになったのだから、もう二度と同じ轍を踏んではいけないと。

そして、敗戦後すぐに新しい平和憲法に変えたおかげで、私たちは戦争とは無縁の平和な毎日を過ごすことができているのだと、信じているのです。

けれども、本当はそうではありません。日本は追い詰められて、どうしようもなくなって、国が滅びるのか、あるいは戦うかという瀬戸際に立たされたということです。

つまり、どうしようもなくなって、戦争に踏み切ったということなのですが、その事実を教育されていないのですから、知らなくて当然ですね。

敗戦後、平和な感じで生きていることができるのは、憲法のおかげではなくて、かつて毅然として戦った日本人がいたおかげなのです。

日本と戦うと、とんでもないことになるということを、世界に知らしめることができたからこその、現在の平和であると言えるのです。

それに、本当の平和を享受できているわけではありません。今でも形を変えた戦争は続いているのです。それはたとえば北朝鮮による拉致事件などです。

これは形を変えた戦争です。平和憲法などというものがあるために、自分たちの同胞が隣国に誘拐拉致されているにもかかわらず、助けに行けないのですから情けない憲法だと言わざるを得ませんね。

日本という国の、他国との付き合い方を歴史の中で見ていくと、面白いことに気づきます。それは、「私が悪いのです」という自虐的な日本人の特徴をよく顕わしていると言えることです。

日本の戦争の歴史をよく知れば、それが侵略戦争であったわけではないということに気づくことができます。世界のどの国に対しても、謝る必要などないということです。

日本の子供たちが、将来胸を張って世界に羽ばたいて行けるようなまっとうな教育をするようになるといいなと思うのです。

賢者はエゴから遠ざかろうとしない

誰であれ、その人の注意が人物としての自分に向くとき、人は苦悩を抱えることになります。

このとき気をつけなければいけないのは、表面的には意識が内側に向いていようが外側に向いていていようが同じだということです。

勿論内省しない人よりも、する人のほうが反省することができるので、それだけ思慮深くなるということは言えると思います。

けれども、どちらにしても心の奥底では、関心を寄せている対象が自分と言う人物であるなら、必ず苦悩することになるということです。

なぜなら、そのときには自動的に自己防衛のメカニズムが活性化してしまうからです。人物としての自分を何とかして守るということが、人生の目的となるからです。

思い通りに自己防衛できればいいですが、必ずしもそうはいきませんし、仮にそれができたとしても自己犠牲という非常に苦しい対価を支払うはめになってしまうのです。

一方で、その人の注意が人物としての自分を通り過ぎて、深い内奥に向かうなら、そのときは全体性の意識としての自己と繋がるのです。

そのような意識とは、一見すると下世話な現実世界から隔絶された意識であるかのように捉えがちですが、実はそうではありません。

真に目覚めた賢者などが、ヒマラヤの山奥でひっそりと暮らす代わりに、一般民衆の力となるために人々との関わりを持つことを見れば明らかです。

彼らは、エゴから遠ざかろうとするのではなく、かえって近づこうとさえするのです。それはエゴを恐れることがないからだし、自然と慈悲の心が働くからなのだと思います。

ということは、修行によって目覚めた意識を持とうなどと思わずとも、他人のため、何かのために生きることができれば、賢者と同じ全体性の意識となるのです。

死と隣り合わせの物語

私たちは、本当に物語が大好きなのです。それが喜劇であろうと、悲劇であろうと、あるいはどんな感動物語であれです。

実際、物語に引き込まれてしまうという経験をしたことがないという人は一人としていないはずです。

自分の人生という物語では足りずに、自分以外の人たちの人生物語にも非常に興味を持ってみてしまうのです。

仮にそれが架空のものであってでもです。映画やテレビのドラマがなくならないのは、そういうことなのでしょうね。

またあらゆる種類の本についても同様です。それが歴史ものであれ、漫画であれ、とにかく人の人生が物語りを紡いでいくのを見て知って、それを疑似体験したいのです。

百歩譲って、たとえ人物が登場しなくても、たとえば地球の歴史や、宇宙の生い立ちなどについても同様にして興味津々な人も多いはずです。

私自身、セラピストの仕事をするようになって、本当に多くのクライアントさんの人生物語をご一緒に体験させていただくことができました。

それは六千回を越える回数のセッションを通して、さまざまな人生物語の深くに織り込まれた、クライアントさんの心の在りようを再体験するという経験です。

けれども、そうした物語のほとんどは自己防衛が中心テーマなのでした。そして、そうした物語をいくら生きても救いはないということも判明してしまいました。

これから先、願わくば自己防衛から開放された物語、しかも作り物ではない現実の物語に、自分が深く関わっていくことができたらいいなと思っています。

そのためには、きっと自分自身の物語を、死と隣り合わせの人生にシフトしていくことが必要なのだろうと思うのです。

死と隣り合わせで生きる

年齢を重ねていくに連れて、人生がいつまでも続くわけではないということが、かなり身近なこととして感じられるようになってきました。

若い頃は、自分もいつかは死ぬのだと頭では分かっていたものの、何となく遠い未来のこととして捉えることしかできなかったのでしょうね。当然だと思います。

特に、私の場合、幸か不幸か身近な人たちの死というものに直面することがなかったという事情もあるのかもしれませんが。

両親ともに元気ではあるのですが、高齢になってきたということもあって、家族の死というものを真っ直ぐに見る必要も迫ってきたという感じです。

またこの数年、自己探求を続けてきたことも自分の死を直視することを加速させる大きな要因になったのではないかと思っています。

というのも、何者でもない真の自己を見るにつけ、そこには生死というものが存在しないということが分かれば分かるほど、人物としての自分の生死が際立ってきたからです。

そして、死のない本当の自分が、人生という物語の中の一つの死を特別なものとしては見ないという意識が強くなってきたのです。

そうなると、今度は生きることと同程度に死ぬこと、あるいは死に至る多くの物語に対しても、同じように興味を持って見ることができるようになってきたのです。

日本の敗戦間近の神風特別攻撃隊、いわゆる特攻隊の物語を読むにつけ、人の命というものが光り輝いて見えてきます。

自分の若い頃は、特攻隊のような死に方を単に理不尽な出来事として切り捨てていました。けれども、若い彼らがこれから死にに行く直前に撮影した写真を見ると、誰もが何とも晴々とした笑顔で写っているのです。

人は誰でも、何かに自分の命を与えることができるなら、自己防衛によって存続してきたエゴが力を失ってしまうために、心が光り輝く状態になれるのです。

それこそが、死と隣り合わせで生きるということです。戦争という特別な状況下で起きたことではありますが、本質的には誰もが自己防衛をやめ、死を直視することで清々しい静寂の中に入っていけるのですね。

興味をもって、歴史を学ぶ その2

子供の頃、父親と戦争の話しをしていたときに、もしも第三次世界大戦が起きて、戦争に借り出されることがあったとしても、自分は「たとえ投獄されても兵士になることを拒絶する。」と言ったことを覚えています。

自分が受けた教育のせいなのか、あるいは他の何かの要因があったのかは分かりませんが、とにかく戦争を忌み嫌うだけでなく、国のために自分の命をかけて相手国の兵士を殺すのを断固拒否するという気持ちだったのです。

そうした感覚というのは、今にいたるまでずっと継続して持っているものです。自分には、国家というものに対する特別な思いが希薄なのです。

けれども、現実をよくよく見てみれば、今のところ国家の存続がなければ自分の家族や親しい人たちの安全もありません。

誰だって争いごとは好きではないですが、それでも大切な人の命が危ないと分かれば、身を挺してでもその人を守ろうとするはずです。

戦争はいやだというのは簡単ですが、自分の家族が他国に拉致されて連れて行かれたとしたら、それを黙って許すわけにはいかないのは当然です。

ほんの少しだけでも、日本の戦前の歴史を紐解くだけで、日本が他国の侵略を目的で戦争したことは一度もなかったということが分かります。

その逆です。白人からは人間扱いされていない黄色人種の代表として、アジア諸国を欧米の魔の手から守ろうとしたのです。

つまり日本の戦争の歴史とは、その頃世界の常識であった白人の植民地計画に対する断固とした抵抗だったということです。

どんな目的であれ、人が人を殺すことを正当化するものではありませんが、誰かを守るためには戦う必要があるというのが、今の人類のレベルなのです。

そのことから目を背けて、ただ戦争反対を唱えていた自分の考えの浅さにようやく気づくことが少しだけできたようです。

あなたは、最初の最初から光明を得ている その4

昨日のつづきです

by osho

お金や権力や名声を探し求めることは、とても道理にかなっているが、光明を探し求めることは、道理に合っていない。もしそうしてしまったら、それはとても深刻な重い旅になるだろう。

だから、宗教的な人々はとても深刻に見えるのだ。宗教的な人々は、誰かが深刻でない限り、彼を宗教的だとは見なさない。深刻さが、宗教的であることとほとんど同意語になってしまった。

悲しく、憂鬱な顔をしていることが宗教的だ。あなたは、聖者が笑っているのを見ることがあるかね?だから、いわゆるインド人の聖者が私に反対する理由だ。

彼らは、光明を得た人がジョークを言えるとは信じられない。彼らには信じられないのだ!
私自身の経験によれば、光明を得た人だけがジョークを言える。

他にどうしようがあるかね?彼は、全てのジョークの中で最大のジョークを見てしまった。彼は、光明を探し求めることの馬鹿馬鹿しさの全容を見てしまった。

人は、探し求めることなしに光明を見いだすが、それは、ある日とても失望する地点がきて、全ての努力を落とすことによってだ。人は正にそのような瞬間に、このことに気が付く。

探し求めることを止めたとき、野望が消えたとき、あなたは自分の在りようとともに取り残される。どこにも行く場所がなく、あなたは内側に居る。内側の旅は、本当は旅ではない。

全ての旅が消えたとき、行くところがどこもなく、行くことへの興味もなく、全ての方向を探したのに、全て失敗してしまった、そのとき ・・・。

どうしようもない失望のうちに、あなたはただ止まる。あなたは、挫折する。しかし、正にその挫折が、変容の瞬間なのだ。どこにもいくところがないので、あなたは内側にいる。

何も探し求めず、探求者だけが残っている。何も捕まえる努力なしに、あなたはふいにその捕まえる人に気付く。どんな対象物にも興味がなかったら、お金にも光明にも神にも興味がなかったら。

主体だけがそこにある。あなたは、我が家に戻ってきた。そうしたら、大笑いがある。何故なら、あなたはいつだってそこにいたからだ。