徹底的に何も無さを見る

できるだけ正直になって自分に注意を向けるとき、そこには何も見つけることができないことに気づきます。これは、内省することとは全く異なるものです。

自分という人物を見つめることとは違うからです。人物とは、思考が作り出した架空の存在であって、それは本当の自分からはまだまだ距離があります。

もっともっと自分に対して近づいていけば、そこには大きさも、形も色も、全く何もないということに気づいてしまうはずなのです。

より徹底的に見れば、思考さえも残らなくなってしまいます。在るのは、何も無さだけであり、そのことに気づいている気づきだけがただ在るのです。

少しでも思考に逆戻りすれば、それは一体なぜ?なぜ?なぜ?が浮かんできますが、それを脇に置いて限りなく自己に向いていれば、それは自然にやってくるのです。

向けていた注意が、それ自身に気づいてしまうという感覚です。私たちは、いつも知覚にどっぷりと依存して生きているために、こうした究極の一人称の感覚に慣れていないのです。

もしも、知覚によって自分を認識していながら、この世界に自分しかいないと思ったら、とてつもない恐怖と孤独感に圧倒されてしまうことでしょうね。

けれども、一人称という真実においての誰もいないというのは、孤独とは無縁のものです。それがすべてだからですね。真実は、まったく気が遠くなるほど壮大です。

どれほど巨大であっても、思考でその大きさを表現できる宇宙に比べて、真実はまったくもって思考でははかり知ることのできないレベルです。

それこそが、私たちの本質なのです。もしも、私が感じている全体性と同じ全体性をあなたが感じているのなら、ここにはどんなコミュニケーションも不要となります。

互いに他者はいないということの気づきだからですね。