個人とは思考の産物

自分て一体何だろう?そう質問しているこの自分とは?このように、この肉体と結び付けてここに自分がいるということを明確に意識するには、生まれてから何年かかかっています。

けれども、一たびそうした自覚が出来上がってしまえば、もう死ぬまで自分がい続けるわけです。朝目が覚めれば、必ず肉体と共に自分がここにいるところから人生が再開されるのです。

肉体がある限りは、「私」は生きているはずです。しかし、こうした想いのすべてが、単なる思考によってでっち上げられたものであるということは、このブログで何度もお伝えしてきました。

それなら、肉体が死によって消滅した直後、その思考は一体どうなるのでしょうか?思考という現象が、すべての源泉から流れ出てきたものだとすれば、肉体が亡くなった後も残る可能性はあります。

その思考は、「自分という存在はここにいる」という内容を含んでいるため、死後も自分がいるという自覚が残るということになります。

その時、肉体という縛りがなくなってしまうので、思考はそれが望むものを知覚するかもしれません。肉体がないので、空間の移動には時間がかからなくなるでしょう。

もっと言えば、思考の中でイメージ可能なあらゆる体験をすることができるはずです。会いたい人にあったり、過去や未来に瞬時に移動することすらできるはずです。

これは想像すると、なかなか楽しいことかもしれません。けれども、元々肉体と自分を同一視することから始まった「私」感覚ですから、そういつまでも続くはずもないのです。

よほどの強い執着や執念などがない限りは、その思考はいずれ消えていく運命にありそうです。その時、二つの選択肢があるように思います。

一つは、思考が新たな肉体を求めて、それと繋がろうとするのです。これが成功すると、いわゆる輪廻転生が起きることになるのでしょう。

もう一つの選択肢は、ただ思考が消滅するということ。こちらを選択するのは、きっと肉体が生きているうちに自分の本質に気づいていて、思考よりも本質に意識が向いている人の場合かもしれません。

勿論どちらでもいいのです。所詮、個人というものは思考の産物であるからです。