思考を観照する側に立つ

ある友人と食事をしている時に、私たちの本質について話しをしたのですが、その時に彼はそれは一つの考え方でしょ?というように応答してきたのです。

それは勿論正しい考え方です。なぜなら、言葉で説明できることは、それが何であれ一つの考え方、つまり思考であることに間違いないからです。

確かに、言葉で伝えようとすれば、それは相手にとっては一つの思考の中身であると判断されてしまうのです。どれほどすばらしい経典であれ、言葉で書かれたものは、それを読む者にとっては、思考と判断できるのです。

それが言葉の限界なのです。元々、私たちの本質について、言葉で説明することは不可能なことです。それは真実であり、真実は思考を超越しているからです。

それでも言葉によって、何らかのものが伝わったらいいのにと思うのです。それは、言葉の受けての感受性に完全に依拠せざるを得ないのですが…。

もしもあなたが、何物にも捉われない空虚なときを過ごすクセがあるのでしたら、自分の本質についての何かを体得しているに違いありません。

勿論それを誰かに伝えたいと思うのかどうかは別のことです。ただ、言葉には決して表現できないこととして、暗黙のうちに自分の中で了解しているに留まることもあるのでしょう。

ただしそれは、崇高なことでも高尚なことでもなく、ただただそれを直に感じている瞬間があるということです。別の表現をすれば、個人としての自分を本質に明け渡しているとも言えるのです。

そこに一体どれほどのメリットがあるというのでしょうか?実は、どんなメリットもないとも言えるし、計り知れない効果が潜んでいるとも言えるのです。

頑張ったから一等賞を取れたというような直接的な効果は皆無ですが、この世界を物語として見る目ができることは、間接的ではあってもその人の人生に多大な影響を与えることになるのです。

思考を越えたところを見ようとする意欲は、思考を見るという態度から発展するのです。思考を観照すれば、思考に巻き込まれることが激減するからです。

思考の中で暮らすのか、その思考を観照する側に立つのかは、神の恩寵によって決まることなのかもしれませんね。