すぐに諦める気質ってどう?

全く何事もない毎日を、日々坦々と過ごしているのですが、それはイベント嫌いの私にとっては、とても快適で居心地のよい状態なのです。

ところが、そんな滅多なことではイベントごとのない私が、皮肉にも大雪の予報が出ている明日(実際にはもう今日)という日に限って、横浜の方まで出かけていかねばならなくなってしまいました。

それは、友達同士の遅ればせながらの新年会なので、行けば行ったで楽しいのですが、私個人的にはわざわざ大雪の日に決行しなくてもいいのではないかと思ってしまうのです。

けれども、やはり諸事情があって決行することになったのです。一度予定を立てたら、かなりの邪魔が入ったとしても何とか計画通りに事を進めたいというのが人情なのでしょうか?

私は根性とか、努力とかとはほとんど縁のない人間なので、何事もすぐに諦めて無理をしないというのをモットーとして、これまで生きてきたので、どうも周りのみなさんとは少しずれているようなのです。

日課となっている水泳にしても、一応1000メートルを目途にしているものの、ちょっと疲れれば、中途半端な距離でもその場で止めてしまいます。昨日は、実際750メートルでやめてしまいましたし。

まだ20代の若いころ、仕事が忙しくてその頃付き合っていた女性となかなか出かけることもできなくて、確かゴールデンウイークに久しぶりに休みがとれたので、遠出する計画を立てたのです。

ところが、何と出かけるその朝に、中央高速で渋滞100km というニュースを見て、私は当然中止だと思っていたものの、彼女はそんなことは全く考えてもおらずで、当然のように出かける準備をしているので、結局半ば呆れた状態で出かけたのでした。

その時の彼女というのは、現在の奥様なのですが、いまだにその時のことを思い出して、ちょっと皮肉混じりの笑い話になることがあります。

ただし、私はそれほど石頭ではないので、行くと決まったならば、すぐに観念して今日一日を楽しもうというように気持ちを切り替えることにしています。

なので、今日は雪と格闘する代わりに、雪はお友達という気持ちになって、体験するすべてをそのままに楽しんでみようと思っています。そんなオーバーな話しじゃないか…。

不二一元論のこと

全力を尽くすと言う代わりに、100%の力を出すと言っても意味は通じます。なぜなら、100%というのは、一部ではなくて全部という意味だからですね。

この100%というのは、10割とも表現できるし、数字で示せば「1」となります。つまり、「1」というのは全部、あるいは全体性を意味してもいるのです。

「1」というのは、本来数字ではなくて全体性を意味するものだったのです。それは、2や3のない、唯一という意味なのです。

インド哲学には、不二一元論というものがあるのですが、それも2のない1ということを意味しています。サンスクリット語では、「アドバイタ」と言うのですが聞いたことがある人も多いと思います。

注意を自分に向け続けていくと、どこかで人物としての自分がいなくなる地点があります。人物としての自分というのは、一人、二人と数えられる存在のうちの一人ですね。

けれども、その数えられる人物が消えて、何者でもなくなったときに、一瞬にして全体性へと広がってしまいます。全体性とは、空間的概念を越えていることを意味しています。

それが、「1」なるものなのです。古来から人はそれに対して様々な呼び名をつけてきました。もっとも一般的なのは、「神」ですね。

幼稚な神へのイメージでは、優しそうな人物像が浮かんできますが、「1」なるものが人物であるはずがありません。あなたが感じている全体性と私が感じている全体性とは同じ一つのものです。

全体が重複して複数あるということは不可能だからです。つまり、あなたのもっとも根っこにある全体性という意識は唯一であり、それは私の根っこにあるものと同一だということです。

だから、あなたは私であり、私はあなたなのです。その「1」なるものが、地球上にいる70億個の人物と自己を同一視しているのですから、興味深いと思いませんか?

どの国の子供もみんな愛しい

クライアントさんの中には、たまに日本語が母国語ではない方もいらっしゃいます。カウンセリングだけでしたら、日本語の分かる方であれば、どの国の方であろうと当然問題はありません。

けれども、催眠のセッションで年齢退行をしようという場合、幼いころのご本人はまだ日本語を知りませんので、うまく日本語でのセッションができないのではないかと危惧されるかもしれません。

こうした心配はご尤もだと思いますが、実際にはまったくといっていいくらいに問題ありません。というのも、催眠療法においては、大人のご本人の意識が普通にあるからです。

催眠状態、つまり変性意識状態では、表面意識がなくなるということは普通ありません。ごくたまに、大人の自分の意識が休止してしまう場合もありますが、それは例外的なことです。

したがって、年齢退行した場合には、大人の意識と子供の時のそれとが同時並行的に表れている状態となるのが一般的なのです。

つまり、セラピストの働きかけに対しては、クライアントさんの大人の意識が受け取り、それを子供の意識へと通訳するのです。だから、子供の頃のご本人は日本語で話すことができるのです。

そして、そもそも年齢退行の中で本当に大切なことは、子供の頃の感情から逃げずにそれをしっかりと味わって感じてあげることですので、その場合には言葉は不要となるのです。

感情を味わうときには、言葉(思考)が同居しない方が圧倒的に効果がありますので、むしろネイティブではない方が有利ということもあるかもしれません。

かえって、日本人の方の場合に地方で生まれ育った場合、セラピストは退行した際の子供の方言や単語が分からないということがあるくらいです。

日本人同士ということで、通訳しなくても伝わるはずという思い込みがあるのだと思います。私は、クライアントさんの幼いころの方言を聞くのは、決して嫌いではありませんが…。

年齢退行のセッションで、クライアントさんの子供の頃の意識と出会うことができるのは、私にとってとても大きな喜びでもあるのです。みんな、愛しいですよ!

他人から見られる恐怖

私たちの苦しみの原点とは、ここに自分がいるという思いです。ここに、他人から見られる対象としての自分がいるという認識が、自分を苦しめるのです。

見てもらえるということは、構ってもらえる、あるいは愛してもらえるというすばらしい利点もある反面、評価されて否定されてしまうという大変な欠点もあるのです。

中学生ともなると、いわゆる思春期を迎えるわけですが、そうなると単なる他人の眼が気になるだけではなくて、そこに異性からの眼というものが加わることになるのです。

その時に、見られる悦びと見られる恐怖の両極端を同時に自覚するようにもなるのです。私は、中学生のある期間だけですが、一度髪をスポーツ刈りにしたことがありました。

なぜそうしたのかは覚えていないのですが、とにかくその期間は非常に楽だったことだけは確かなのです。きっと、ヘアスタイルを気にする必要がなくなったからなのでしょうね。

異性の眼を気にして、毎朝少しでも寝癖などがついていたら、気にして整えなければならないのに、スポーツ刈りにしたおかげで、ヘアスタイルがどうでもよくなったのです。

見られる(評価される)対象としての恐怖が、幾分緩和されたということなのでしょうね。スポーツ刈りの頭をどういじくったところで、どうなるわけでもないからです。

また、大学生の時には、濃い色のサングラスをかけて電車に乗ると、非常に気持ちが楽だったことを覚えています。自分の目を他人に見られずに済むからです。

目というのは、その人の心の中身を映し出すものだからですね。自分が内心で、他人の眼を怖がっているということを知られずに済むような気がしたということです。

話しを初めに戻すと、他人から見られて評価される恐怖というのは、ここに自分という人物がいるとの思い込みからやってくるものです。

ということは、自分の本質に気づいて、その全体性を感じているときには、評価される恐怖はなくなってしまうはずですね。もちろん、そこには恐怖などあるはずもありません。

けれども、同時に人物としての自分の恐怖とも密着していることを忘れてはなりません。私たちの本質とは、そういうものです。恐怖が消えるのではなくて、恐怖の渦中にある自分を丸ごと抱きしめているのです。

徹底的に何も無さを見る

できるだけ正直になって自分に注意を向けるとき、そこには何も見つけることができないことに気づきます。これは、内省することとは全く異なるものです。

自分という人物を見つめることとは違うからです。人物とは、思考が作り出した架空の存在であって、それは本当の自分からはまだまだ距離があります。

もっともっと自分に対して近づいていけば、そこには大きさも、形も色も、全く何もないということに気づいてしまうはずなのです。

より徹底的に見れば、思考さえも残らなくなってしまいます。在るのは、何も無さだけであり、そのことに気づいている気づきだけがただ在るのです。

少しでも思考に逆戻りすれば、それは一体なぜ?なぜ?なぜ?が浮かんできますが、それを脇に置いて限りなく自己に向いていれば、それは自然にやってくるのです。

向けていた注意が、それ自身に気づいてしまうという感覚です。私たちは、いつも知覚にどっぷりと依存して生きているために、こうした究極の一人称の感覚に慣れていないのです。

もしも、知覚によって自分を認識していながら、この世界に自分しかいないと思ったら、とてつもない恐怖と孤独感に圧倒されてしまうことでしょうね。

けれども、一人称という真実においての誰もいないというのは、孤独とは無縁のものです。それがすべてだからですね。真実は、まったく気が遠くなるほど壮大です。

どれほど巨大であっても、思考でその大きさを表現できる宇宙に比べて、真実はまったくもって思考でははかり知ることのできないレベルです。

それこそが、私たちの本質なのです。もしも、私が感じている全体性と同じ全体性をあなたが感じているのなら、ここにはどんなコミュニケーションも不要となります。

互いに他者はいないということの気づきだからですね。

「今この瞬間」を直接体験する

「今」という言葉に対して、誰もが連想するのは「時間」についてのことだと思います。昨日、今日、明日のような言葉と同じように、時間に関連した意味合いがあると思っているのです。

それは勿論間違いではありませんが、このブログでいつも書いている「今」とか、「今この瞬間」といったときには、それは時間とは何の関係もないのです。

時間というものは、思考が作り出したものであって、決して真実ではありません。一方、「今」というのは、この世のものではありません。それは、知覚することができないものです。

知覚できないものを、思考で捉えることは不可能です。つまり、「今この瞬間」とは思考を越えたものだということです。「今」とは、この世界を世界たらしめているバックボーンのようなものです。

こうして改めて書いてみると、「今」とは本当に不思議なものですね。「今」に気づいている人は、この世界を観照することのできる人だと言えます。

「今」は、物語の中には決して出てこないのです。私たちの人生も一つの物語ですので、そこには、つまり物語を観る目には、「今」を見つけることができないのです。

物語は時間とお友達であり、時間と共に推移していくのです。だからこそ、私たちは時間の中で生きているように感じているのです。

けれども一方で、「今」という真実の中に、物語を含めたこの宇宙が丸ごとすっぽりと受容されてしまっています。「今この瞬間」とは、全体性のことです。

なるべくなら、「今この瞬間」に意識を向けていることです。意識を向けるとは、注意を向けている状態とも言えますね。その時に、注意を向けている誰かがいるわけではないということにも気づきます。

それは、「今この瞬間」を直接体験しているのです。ここに、思考の入ってくる余地はありません。だからこそ、とても深淵で清々しいのですね。

自分の人生を取り戻す

ある人のことを別に何とも思っていなかったのに、その人が自分に好意を持っているということを聞いた途端に、意識するようになってしまうということがあるものですね。

こうしたことは、誰にでも多かれ少なかれ経験があるのではないでしょうか?つまり、私たちは自動的に他人の思いというものに反応してしまう傾向を持っているということです。

それが、生まれたときからずっとなら尚更のこと。物心がついたころから、家族や親せきといった取り巻きから、この子はこういう子だと思われれば、そのように自動的に振る舞うようになるのです。

この子はおとなしい子、大人の邪魔をしないいい子、自慢の子、一番を取れる子、駄々をこねたりしない育てやすい子、こんな評価を与えられたらたまったものではありません。

その子が自分らしく生きることができなくなってしまうのは、当然のことですね。子供は本来無邪気で自由に生きているはずです。そんな大人に都合のいいルールなどに興味はありません。

けれども、相手を落胆させたくないし、自分のことを否定的に見られたくないという恐れから、相手の期待に応えようとしてしまうのです。

また、親は自分が果たし得なかった願いを子供に託すという傾向があるものです。例えば、経済的に余裕がなくて、学業を諦めて働かざるを得なかった人が親になった場合、自分の子供にはどうしても大学に行って欲しいと願ったりするわけです。

こうしたことがすべて、子供にとっての重圧になってしまうのです。子供には子供の好みや志向があるのですから、それを尊重してあげる必要があるのです。

もしも、あなたが誰かの期待に応えようとして頑張ってきたという自覚があるのでしたら、どうか自分の人生を取り戻して欲しいのです。

まずは、誰のためでもなく、はっきりと自分のために毎日を生きていくことです。それができないうちは、誰かのために生きても、それはただの自己犠牲で終わってしまいます。

しっかりと自分を優先することができて、初めて人と対等に生きることができるようになるのです。あなたには、その権利があるのですから。

誰かのために生きるとしたら、自分のことを尊重することができた後です。その時には、本当に自分以外の誰かを尊重することができるのですから。

いつかは終わることを喜ぶ

40歳を越えてしばらく経ったころに、近くのものが見えづらくなって、気が付いたら老眼の始まりでした。あの時はびっくりしました。自分の身にも、老化が確実にやってくるんだなと驚いたのです。

そして、今となっては体力の低下や皮膚の老化、記憶力が落ちたり細かな作業が苦手になったりと、あらゆる分野において加齢からくる自分の変化に気づかされます。

アンチエージングという言葉があるように、誰にでも確実にやってくる老化について、私たちはあまり快く思っていないのです。女性は特にそうかもしれませんね。

けれども、どれほど抵抗したところでいずれは老いて、そして死んでいく運命にあるのです。健康を保つ努力をすることと、老化防止は似ているようで違いがあります。

加齢を止めようとするよりも、その年齢に見合った健康を維持しようとする方が、自然体でいられるような気がしますね。女性の場合であってもです。

例えば、顔のしわを目の敵にするよりも、しわを一つの味わいにしてしまえばいいのです。若々しさを維持しようとするあまりに、無機質な表情になってしまうのなら、それは人生と戦っていることになってしまいます。

今日、自分の身体や心に何が起きたとしても、それと戦おうとするのではなくて、それをそのままに受け入れることです。それが人生を友達につける唯一の方法なのです。

そして、もしもあなたが一度でも自分の本質に気づく体験をしたのなら、老いていくこととも戦わなくなっていくはずです。変化を容認するようになるということです。

なぜなら、あなたの本質は変化とは無縁だからです。この視点から見ることができるなら、人物としての自分が老いていくことは喜ばしいことでもあると気づくはずです。

いつまでも続く映画など、誰もお金を払って観に行ったりしないのと同じように、いつかは終わることを前提にすべてが推移しているのです。

私たちの肉体もそのルールの中にあるのですから、いつかは終わりを迎えることを心から喜んで受け入れることができたらいいですね。