二元性から非二元へ

マインドというのは、いつでも自分に都合のいいことばかりが起きて欲しいと願っているのです。

それがマインドの根本的な問題なのです。普通に考えれば、いやなことが起きて欲しくないというのは当然のことですが、残念ながらマインドの生きている場所は、二元性の世界なのです。

二元性ということは、都合のいいことが起きれば、必ずその分だけ都合の悪いことが起きることになっているのです。

快楽を求めれば不快がやってくるし、幸せを求めれば不幸が同じ量だけやってくるのです。これが二元性の原理です。

二元性というのは思考が作ったものであって、実在するものではありません。実在は常に非二元だからです。

この原理に気づき、これを逆手に取って生きる方法があります。それは、都合のいいことをあまり求めない生き方です。

都合のいいことにそれほど関心がなければ、都合の悪いこともそれほど起きなくなっていくのです。それが二元性のバランスです。

どれかを選択するということから離れることができるなら、やってくることをそのままに受け入れるようになるのです。

その結果、思考は緩んでいい悪いどころか、好き嫌いすら薄れてしまうのですね。それこそが究極の生き方であり、二元性から非二元へと戻っていくことになるのです。

無が親で、現象が子

眠りの中で夢を見ている時、夢を見ているということを忘れて(つまり無意識になって)その夢の内容にばかり注意が向いていますね。

ちなみに、夢を見ていることを意識した瞬間に、通常は夢から目覚めてしまうという経験をしたことがあるかもしれません。

これと同じことが、毎日の生活の中で起きています。つまり、起きている現象にばかり注意が向いて、その源である「何もなさ」を忘れてしまっているのです。

このことを忘れずにいるには日々の訓練が必要です。音楽を聞いている時に、その源である無音、つまり静寂を感じている練習をするのです。

映画を鑑賞しているときに、映像の源にあるスクリーンを感じているようにするのと同じです。

自分という存在も含めて、あらゆる起きつつある現象の大元には常に源泉としての「何もなさ」が在ることに注意を向けること。

それを感じていられるなら、目を開けていても目の前の現象を何も見ずにいることもできるようになるはずです。

夏休みにこんな練習をしてみるのもいいかもしれませんね。

盲導犬に教えられたこと

マンションの近所に、盲導犬を育成している施設があります。そのため、近所をクルマで通ったり散歩したりしていると、盲導犬の訓練をしている場面に出くわすことがよくあるのです。

盲導犬のタマゴに対して、訓練係の人がアイマスクをした状態で、実際に歩道を歩いたりしているのです。

その姿を見るたびに、あるテレビ番組で見た盲導犬の一生のような物語を思い出すのです。

生まれてから一年くらいは、一般の家庭で普通のペットとして飼われるのですね。その家の子供達と仲良くはしゃぎながらの楽しい毎日。

ところが、ある日突然盲導犬として育成されるために、施設へと連れていかれてしまうのです。子供達との別れはとても悲しいのです。

訓練を受けたからと言って、実際に盲導犬として独り立ちできる犬はわずかだと聞いたことがあります。

それはそうでしょうね、犬にだって向き不向きというものがあるはずですから。同じように訓練を受けたとしても、合わない犬だっているのです。

目の不自由な方々の文字通り目となって働くのですから、運良く盲導犬になれたとしても、そのストレスは計り知れないものがあるのでしょうね。

犬の平均的な寿命よりもかなり短い命になってしまうということです。そして、ある年月盲導犬としての使命を全うした時点で、元々飼ってもらっていた家庭へと返されるのです。

そのとき、家族の誰もが歓迎している中で、その犬はしばらくなにが起きているのか分からずに、じっとみんなをみつめているのです。

そしてふと気がついて、思い切り元の飼い主たちのところに走って飛びつくのです。その姿は涙なしでは見れません。

絶対に走ってはいけない、決して飛びついたりしてはいけないと長年訓練されてきた、その規則を一瞬にして忘れたかのように家族の元へと飛び込んでいくのです。

そしてそこから短いですが、幼い頃と同じ自由な人生を生きて死んでいくのですね。私たち人間にも同じことが言えるのだと思います。

社会はある意味過酷な場所です。さまざまな訓練を受け、規則で制限された生き方を強いられるのですから。

それでも、いつかは幼い無邪気なころの自分をしっかり思い出して、あの自由だったころのように、楽しく無防備に生きることができたらいいのにと思うのです。

「見る」ことで思考から離れる

意識的であるということは、まさに今この瞬間に注意を向けているということです。それこそが、「見る」ということですね。

厳密に言ってしまえば、1秒前のことであってもそこに意識を向けるなら、それは「見る」ことにはならないのです。

「見る」ことの本質は、過去や未来といった時間的な広がりのないものだからです。時間は必ずそこに思考が介在するからです。

「見る」ことの真髄とは、思考から完全に離れていることなのです。だから「見る」ことは、瞑想と同じだとも言えますね。

瞑想というと、そのための時間を作って、その間は何もせずにただじっとして静かに目を閉じている、そんなイメージがありますね。

けれども、「見る」ことはそんな時間を作る必要すらありません。いつどんなときにでも、その瞬間を「見る」ことは可能だからです。

毎日数時間も瞑想ができる人であっても、「見る」ことはできないかもしれません。なぜなら、瞑想が終わった時に普段の状態に戻ってしまうからです。

瞑想の習慣をつけることも大切ですが、「見る」ことの方がお手軽で、普段の生活の中に組み入れることができるのですから、やらない手はありません。

できてもできなくても、「見る」ことを忘れないことです。時間はかかっても、少しずつなにかが変わってくるのを実感できるときがくるはずです。

情と愛情と愛

情に厚い人というのがいますね。基本的には、いい意味で使われることが多い気がしますが、誤解を恐れずにいうと少し危ない感じもするのです。

自らの情を優先するあまりに、とかく「良かれと思って」行動することが多いのではないかと思うのです。

反社会的な勢力の人たちは、「義理人情」をとても大切にすると聞きますが、そういうのも同じ類です。

情は愛ではありません。自分の情を最優先してしまうと、相手の気持ちを無視するようなことになりがちです。

だから、人と人との境界線が曖昧になってしまうことも多いのです。自分は決して悪くないという土俵を作って、結果として相手の領域を犯したりすることになるのです。

情に厚いのが好きな人に向かえば、愛情になるのです。自分が子供にしてあげたいことをせっせとするのは親の愛情であって、決して愛ではないのです。

された方も、相手に悪気がないことは分かっているのでむげに断れないという構図があるわけです。

愛は何かをするというよりも、相手を尊重して相手の気持ちを受け止めることが主なのです。だから自分と相手がいつも対等になるのです。

情を中心に生きている人は、こうしたことを何度言われても分からないかもしれないので、一緒にいる場合には注意が必要です。

なぜなら、情で動けば自己満足に陥ってしまい、場合によってはパワハラを起こすことにも繋がるからです。

信念から距離を置いて中立でいる

憶えておきなさい、これは生でもっとも重要なことのひとつだ。もし固定観念、固定した態度で探求を始めたら、あなたはかならずそれを見出す。そうなったら悪循環だ。それを見出すとあなたは考える、「私が発見したんだから、もちろんそれはある」と。そうなると、それはあなたの信念をさらに強化する。

by osho

もしもあなたが、何かを信じるタイプの人であるなら、↑上に書いてあることを十分に注意する必要がありますね。

信じるということは、信じないということと同じだけの執着がそこにあるのです。信者になれば、誰かの言葉を鵜呑みにするし、誰かの信念に盲目になるのです。

信じることで、信念が入り込めば、外の世界を見る時には必ずその信念を投影することになってしまうのです。

たとえば、あなたがイエスキリストを神の子として信じるなら、瞑想している時にイエスの言葉やマリア様の姿を目撃してしまうかもしれません。

そうなったら、悪循環が開始されます。自分が見たものを信じることで、初めの信念はさらに強固なものへと変化するのです。

そうなったら誰が何と言おうが、その信念から抜け出すことはとても難しくなってしまうでしょうね。

初めに戻って、信じたり信じなかったりすることから離れていることです。どちらでもないという態度でいられるようにすれば、信念からも解放されるはずだからです。

信念はマインドを硬直させて、正しさに依存する人生になってしまうのです。どんな信念からも距離を置いて、自由でいる練習をすることですね。

想像は思考ベース

「想像をはるかに超える」という言い方がありますが、思っていたのとは比べ物にならないくらいだということです。

私たちは、現実というのは自由にはならないものですが、想像であれば完全に自由だと思い込んでいます。

宝くじに当選する想像もできるし、憧れの人と結ばれる想像だってできるからですね。けれども、自分の本質についての想像はできません。

想像、イマジネーションをどれほど逞しく活用しても、それは不可能なことなのです。なぜなら、想像とは思考がベースにあるからです。

だから思考の届く範囲でしか想像することはできません。本質とは思考の外にあるものなので、決してそれを想像することはできないのです。

それよりも、心静かにしてマインドが緩んだ状態でやってくるものに耳を澄ましてみる方が、少しは本質に近づけるような気がします。

慣れてくると、それほど時間をかけなくても本質である無を感じることができるようになります。

このような練習を常日頃からやっていると、いざという時に非常に役に立ちます。何かに囚われたり、冷静ではいられない状態になったときに効果を発揮します。

そしていつでも自分の本質に近づくことができると分かれば、感情的な自分は外側だけだと気づいて、奥ではゆったりしていることができるのですね。

死は重荷を解放する

死は偉大な友人だ、それはあなたから重荷を取り除く。それは、あなたが蓄えてきたあらゆる重荷を取り除く。ひとたびこの重荷からの解放を自ら進んでゆるせば、死はサマーディとなる。もしあなたが自ら進んでゆるさなければ、死はサマーディではなく、痛みとなる。

by osho

人生の中で、誰もが何らかの重荷を抱えて生きています。それらの重荷というのは、誰あろう自分自身がこしらえたものです。

自分のマインドは負荷が必要なのです。それがなければ、ひとまとまりの存在であることを保てないからです。

それはちょうど、バラバラだった家族が災害などが起きて一致団結して、一つにまとまるようなものです。

だからそれなりの重荷はどうしても必要なのですが、それでも一方ではその重荷を肩から降ろしたいと思っているのも事実です。

生きている限り、つまりマインドがある限りは重荷がなくなることはありません。だとしたら、死こそが唯一の救いだということになります。

実際、死ぬことであらゆる重荷から解放されるのです。勿論一緒にマインドも消えていくのですが。

私自身、何があろうとも最終的には救われると感じるのは、死、あるいは無を連想するからです。

死は瞑想の時と非常に似ています。瞑想は一時的にであれ、自分の本性は無だということに気づかせてくれるのです。

生きている間に、死のフレーバーを感じられる人は幸運だと思いますね。

中道こそ非二元

行為者、自我という現象、これが自然を失い、自然から離れてゆく。やがてあなたは、息苦しさを覚えはじめるほど遠くへ行ってしまう。あなたの存在に分裂症が生じるほど遠くへ行ってしまう。あなたの周辺は中心から離れてばらばらになりはじめる。それが回心の地点、宗教が的を射たものとなる地点だ。

by osho

両極端という言葉がありますが、実は片側だけの極端にずっと居座ることは不可能なのです。

それはマインドがもちません。崩壊してしまうのです。やじろうべえの片一方の手だけが長ければ、均衡を保てずに倒れてしまうのに似ています。

言葉で表現してしまえば、どちらでもないというのが非二元ということで、それこそが完全なる真ん中を意味するのです。

少しでも中心からはずれれば、これまたやじろうべえのように、次の瞬間にはもう一方の方へと傾くのです。

そうやって両方の側へと繰り返し傾くことで、均衡を保つことになるのです。私たちのマインドも同じこと。

自己防衛によって、中心からずれてしまえば、いずれはその逆方向へと向かうことになるのです。

その揺れを繰り返すことで、いつまで経っても中心に戻ることができません。マインドが消えた時に初めて、ど真ん中に戻ることができるのです。

それをブッダは中道と呼んだし、別の言葉で表現すれば非二元ということになるのですね。

人生何が起きるか分からない

天気予報を観ていたら、全国各地の最高気温の中で一番低い温度だったのが那覇だったので、驚きました。

こんなことになるとは、まったく思いもよらないことですから。けれども、人生というのはそんなものかもしれません。

こうなるだろうとか、こんなことは起きるはずがないと勝手に思い込んでいるからこそ、びっくりするようなことが実際に起きるのです。

ごくごく平凡な会社員のままで終わるのだろうと思っていた自分の人生が、気がつくと今のようなことになっているのも、ある種驚きなのです。

自分の人生をきっとこんなものだろうと決めつけるのは、あまり得策とは言えないのです。そもそも予想したところで、明日のことは分からないのですから。

だからといって、明日何か物凄いことが起きるかもしれないと言っているのでもありません。それはそれで、余計な期待が生まれるからです。

毎日淡々と、というのが生きる極意なのです。そして、起きたことは何であれそのままに受け入れることができれば、いいも悪いもないと気づけるのですから。

そうすると、自然と今日が愛おしく感じられるようになるかもしれません。何が起きても、何が起きなくても、どちらもOKということですね。