自分を強いる代わりに見守ること

世の中には沢山の良さげな教えがありますね。「人のために生きなさい」とか、「人を優先しなさい」等々。

それを教え込まれて、それがいいことだからと信じて、そのように自分を強いるなら、後でとんでもないしっぺ返しがやってくるのです。

ただし、気がついたら人のために生きていたとか、ごく自然に人を優先していた、というのなら問題はありません。

要するに、自分を強いるかどうかが分かれ目なのです。自分を強いると、そこには必ず何らかの自己犠牲が発生します。

その自己犠牲のエネルギーが蓄積すると、いずれはそれが人生を破壊するように働き出すことになってしまうのです。

自分を強いる生き方から離れるなら、人はもっと自然に生きることができるのです。自然とはそういうものです。

今と違う自分になろうとか、もっとできるはずだとか、よりレベルアップした自分にならねばとか、そうした努力はすべて不自然なものだと気づくことです。

私が知っている不自然の極みは、「徳を積む」ように強いること。これは最もエゴが喜びそうなことですね。

自分を強いる代わりに、自分を見守ってあげること。このことをいつも忘れずにいてあげられるなら、どんな努力も必要ないと分かるはずなのです。

継続は能力なんかじゃない

「継続は力なり」という言葉がありますが、若い時にはこの言葉を聞くたびになんだか苦々しい気持ちになったものです。

というのも、何事も長持ちせずにいつも途中でいやになって止めてしまうという習性が自分にはあると思っていたからです。

子供の頃の習い事であれ、大人になって始めた趣味のことであれ、どれ一つとってもモノになったことがない。

だから自分としては、継続できるのはそれだけで一つの大きな能力なのだろうなと感じていました。

けれども、今となっては継続することがなかったには、それなりの理由があったのだと分かったのです。

それは本当に自分がそれに興味を持っているのかどうかということ。誰かが面白いというのを聞いて、自分もやってみようと思ったところでそれは続かないのは当り前。

元々忍耐力がないというのも手伝って、一時的に興味がある程度ではとても続かないのです。

そんな私がこうして毎日ブログを書き続けているのは、ただただ興味があるからだとはっきり分かるのです。

つまり継続するかどうかは能力などでも忍耐力でもなく、興味があるかどうかの問題だったということです。

もしもかつての私と同じように、自分には継続は難しいと思っているのなら、まったく心配はいりませんし、自分を否定する必要もないのです。

そんなあなたはまだ、「それ」に出会ったことがないだけだということ。いずれは、あなたを待っているものがあなたに訪れるときがくるはずです。

多忙でエゴは活気づく

会社員だった頃、とにかく忙しくて毎日深夜に帰宅して、遅い夕食を摂って寝るだけの日々が続き、希望といえば休日を楽しみに待つことでした。

休みになったら、あれもやってこれも済ませて、あの本を読んで、足りないところを勉強して…と、予定を立てておくのです。

ところが、実際の休日となると、予定の一つもできずにただ何もせずにその日を過ごしてしまうのです。

さすがに1週間も休みが取れたら、そんなことはないだろうと思って楽しみにしていると、気がつくと何もせずに連休の最後の日が来てしまうのです。

そんなことばかりが続くと、さすがに休日に期待するのをやめるようになりました。どうせ何もせずに終わるなら、最初から予定などしなければいいのだと。

本当にやりたいことがあれば、かえって忙しい方が、間隙をぬってでもやれるということも学習したのです。

最近では忙しさというものが人生から完全に消え失せてしまって、やるべきことも特にはなく、ほとんど何の予定もなくなってしまいました。

そうなって初めて分かったのですが、暇な状態よりも忙しい方がエゴにとっては都合がいいのですね。

充実するというか、何であれ「やった感」があるからです。今はエゴの充実感よりも、エゴに都合の悪いことの中にいてみるというのを試している日々です。

このブログを書き終わったら、もう何もありません。ただ何もなさの中で寛いでいるのみです。

自信のなさも持たない

人はキャリアを積んで行って、それなりの結果を残すことができるようになって、次第に自信ができてくるのです。

他人からの高評価を得たり、自分でもできないと思い込んでいたものができるようになったりと、それが自信をつけていく道なのです。

それとは反対に、いつまで経っても自信がないという自覚を持ちつづける場合もあるのです。そういう人は、自信をつけたいと願うことでしょう。

ところが実際は、自信がついたという人であっても、ほんの少しの失敗や何かをきっかけに、あっという間に自信喪失状態になることもあります。

ずっと継続して自信満々ということは少ないはずです。こうした自信があるとか自信がないということと離れた生き方も実はあるのです。

つまり自信を持たずに生きるのです。これは自信喪失という意味ではなく、ただ自信のあるなしから解放された状態なのです。

物事へのこだわりが小さくなると、それに伴って自信も必要がなくなるのです。これは感覚としてはなかなか分かりづらいかもしれません。

自信のなさも持たないという表現をすれば分かりやすいでしょうか。自信のあるなしはエゴのものだと理解しておくことですね。

気づきのチャンスは常にある

人生においては、喜ばしいことばかり起きるというわけではありませんね。悲しいこと、困ったこと、起きて欲しくないことも起きるのです。

けれども、そんなときが最大のチャンス到来なのです。一体何のチャンスかというと、大切なことへの気づきを得るチャンスなのです。

私たちは、嬉しいことや都合のいいことの中では、気づきを得ることがとても難しいのです。なぜなら、そのような場合には無意識的になる傾向があるからです。

一方で、追い詰められたらそこに意識を集中することができるのです。そして、事態から逃げずに、そして心理的な対処をせずにいるようにするだけで、必ず気づきがやってきます。

ところが自我というのは、問題が起きればすぐにそれを何とかして解決しようとするか、そこから逃亡しようとしてしまうのです。

そうして大切な気づきのチャンスを台無しにしてしまうわけです。もしも取り立てて困った事態が起きなくても、自我の根本的な問題に気づいているなら、いつどんなときでも気づきのチャンスがあるはずです。

自我は、常に不安と孤独を持っています。それなしには自我は成立しないのです。そのことに気づいていられるなら、何があってもなくても、追い詰められた状態にいることができます。

それこそが本当に自我から解放される大きな気づきを得る道なのです。辛いことが起きたら気づくチャンス、嬉しいことがあったら大いに喜べばいいのですから、どちらにしても人生は得ですね。

自我が苦しみを作り出す

3日間行方不明だった2歳の男児が、無事救出されたというニュースを見ました。内心では、もうダメなんじゃないかと思っていたので、ホッとしましたね。

報道によると、ボランティアの方によって発見されたらしいですが、弱っているわけでもなくしっかりとした状態だったそうですね。

その後母親に手渡されたときにも、泣き出すわけでもなくもらった飴を食べていたということです。

番組の中で、本当に強い子だということが言われていましたが、確かに気丈なところのある男の子なのかもしれませんが、もう一つ大きな理由があると思うのです。

それは年齢です。ちょうど2歳になったばかりのやんちゃな男の子だとすると、言葉はしゃべれるとしても自我がしっかりできあがってないのではないかと。

だとすれば、痛みや恐怖はその都度感じるものの、継続的な苦しみのようなものを自覚することはないのだろうと想像できるのです。

簡単に言えば、まだ人間になりきれてない状態なのです。この状態であれば、半分くらい動物のように生きているので、苦悩することはないのです。

逆にいうと、苦悩できるようになるためにはそれなりに自我が成長していなければならないということです。

私たちは、身に降りかかったことで苦悩すると思っていますが、そうではなく自我が苦悩を作り出すということです。

人生の苦しみを外側からやってくる事柄のせいにするのですが、本当のところ苦しみを作っているのは自分の自我だということを再認識することですね。

幸不幸と至福の違い

人は誰もが幸せになりたいと願い、すでに幸せな人はもっと幸せになりたいと願っているのです。

欲しいものが手に入ったり、願っていたことが現実になれば、幸福感がやってきてくれるはずです。

逆に不幸というのは、その逆の状況によって引き起こされるのですが、幸福も不幸もいずれにしてもそうなるには理由があるのです。

つまり、〇〇だから不幸であり、〇〇だから幸せだと言う具合に。そして理由が必要なことというのは、結局のところすべて一過性であるということです。

幸せな理由は、不幸との比較によるということもあります。幸せも不幸も、どちらも人生物語の中での出来事です。

そこと全く次元の異なる至福というものがあるのです。至福には理由がまったくありません。〇〇だから至福を感じるとは言えないのです。

だからこそ、至福の状態とは永遠のものです。それが起きる理由がないのであれば、それがなくなる理由もないからです。

幸不幸が振り子のオモリであるなら、至福は振り子の支点だと思えばいいのです。幸不幸は状況によって行ったり来たりして、どこかにとどまることはありません。

振り子がどの状態であろうが、支点である至福はずっとそこにあるのです。支点が変化することはないのです。

もしもあなたが、今この瞬間の中に永遠性を感じられるのなら、きっと同時に至福をも感じ取ることになるはずです。

一過性でしかない幸せを求める代わりに、不動の至福を見出せるように意識的になる方を強くおススメしますね。

思考の外側を理解しようとしない

随分前から、きっと子供の頃からだったと思うのですが、この現実世界がすべてではないということをどこかで感じていたのです。

こんなふうに言葉で表現したことはなかったですし、もっと漠然とした感覚だったと思うのですが、確かにこれだけではないと感じていました。

それが人々が言う天国とか地獄、あるいは死後の世界のようなものとは根本的に違うのもどこかで分かっていました。

今ならそういった類のものは、思考が作り上げたものだとはっきり分かります。私が感じていたものは、思考では到底理解できない何かだと知っていました。

思考を使うなら、自分の場合は現実から解放されたときには何か長い夢から覚めて、ああそうだったのかと正気に戻ったときのようなもの。

その方が天国地獄に死後の世界よりも、ややしっくりくるのです。けれども、こうした想像はいずれにしても思考であり、真実ではありません。

思考の外側のものを理解しようとしないことです。それはただ在るだけだからです。理解しようとすることからきっぱり離れるのです。

そしてもっと素直に、ただ在るものと共にいればいいのです。この現実世界は、海で言えば海面のさざ波のようなもの。

海全体をハートで感じつつ、今日も目の前の現実と一緒に漂うことにするとしますかね。

死から逃げずにいれば、死はないと気づく

子供の頃に、初めて死んだらどうなるんだろう?という考えがやってきたときには、心が凍りついて顔が引きつったようになったのを覚えています。

誰もがいつかは自分にも死が訪れるということを知っているくせに、そこから目を背けて生きているのです。

だって考えたって仕方ないじゃない、という声が聞こえてきそうですが、そういうことではなく死を身近に感じながら生きるかどうかということ。

死から逃げずにいられると、生き方が変わるのです。人は知らないうちに死という現実から離れようとして、それを忘れる術を見出そうとするのです。

目標を持つことも、何かに没頭することも、何かと争うことも、すべてが死を忘れるための作戦だったのです。

けれども、死から逃げないという態度ができると、今度はそれまでまったく気づけなかった自分の内側の不死性に気づいていけるようになるのです。

これって皮肉なものですね。死を恐れて逃げ惑っているときが一番死が怖い状態を作り上げるのです。

その一方で、死から逃げずに真正面から向き合うなら、死はないということが分かってくるということです。

死だけでなく、あらゆる大切なこと、そして真実もいつだってすぐそばにあるのに、怖くて見ようとしないでいるために、当然のことながら見落としてしまうのですね。

死は自分自身からの解放

ここ10年くらいの間に起きた自分の内面の変化のうち、もっとも際立っているもの、日々の生活に強く影響したものはなんだろうと考えて見ました。

実はいろいろあるのですが、やはり一番は一口に言ってしまえば死生観が大きく変わったということです。

生きるということは、常に死ぬことをどう捉えているかが強く影響しているのです。だから、死に対する感覚が変われば生き方もおのずと変化するのです。

若い頃は、死は自分には来ないもの、自分以外の誰かが死ぬという思いがあったのですが、年齢とともに死がより身近なものとなったのです。

だからこそ死を真正面から見ることになり、その結果忌み嫌うべきものだった死が、ある意味歓迎すべきものという部分が大きくなってきたのです。

死は解放です。あらゆるものからの解放というだけでなく、自分自身からも解放されるということが救いなのです。

私たちは誰もが強制されたわけでもないのに、自分という自我を作り出して、その罠に深くはまり込んだ状態で日々過ごしているのです。

そしていつかは死がその罠から解放してくれるのですから、十分に安心して思い切り罠の中で楽しめばいいだけです。

それが気楽さを生み、無防備で清々しい人生にしてくれるのです。もちろん自我はそれでも、なんとかして苦しみを生み出そうと頑張りますが。

そんなこんなをすべてひっくるめて、救いがくるまで楽しめばいいのですね。