ハートの声を聴く

日本語には「心」という便利な言葉があるのですが、その本来の意味するところは英語で言う「ハート」だったのでしょうね。

勿論今でも心をハートと訳すことができるのですが、現代ではもう一つの意味が追加されてしまったのです。

それが英語でいうところのマインドです。つまり、今では心というとハートのことでもあると同時に、マインドのことを指すこともあるので厄介です。

なぜなら、ハートとマインドとでは全く意味が異なるからですね。だから私は極力心という曖昧になってしまった言葉を使わないようにしています。

ハートというのは私たちが生まれながらに持っているもの、生まれ付きあなたについてくるものです。

一方でマインドというのは頭のことであって、それは生後親や社会があなたに取り付けたシステムなのです。

そのシステムは、立派な社会人として生きていくための必需品なのです。社会の会員になるための証明書のようなものです。

だからハートを優先して生きようとすれば、マインドに拒絶されてしまうかもしれないのです。

なぜなら、マインドは社会によって条件づけされ、調教訓練されたものだからです。あなたのこれまでの生き方は、ハート優位であったのか、それともマインド優位だったのか。

もしも後者であったとしたら、あなたのハートはきっと泣いているに違いありません。私たちの本性はハートだからです。

マインドが何と言おうと、それをそのままにしておいて、ハートの声に耳を澄ましつつ、それに従って生きるならきっと清々しい人生へと変化するでしょうね。

無執着と放棄

もしもあなたが自由に生きたいと願うなら、無執着であることが絶対的に必要なことだと知ることです。

執着とは、外側の何かにすがりついて離れられなくなることなので、当然の結果として不自由極まりない状態となるのです。

一方で無執着でいることは放棄することとは全く異なるのです。放棄することはそれから離れてしまうこと。

何からも離れる必要などないのです。放棄は防衛の一種であって、執着をなくすこととは違うと理解することですね。

自分を守るために正しさを一番大事にする生き方がありますが、それは正しさに執着しているということです。

正しさという心の鎧は、確かに一過性の安心をもたらすのですが、その分だけ自由を奪われることになるので、人生は破壊されてしまいます。

かといって、正しさを放棄するということではありません。放棄することは正しさと戦うことになってしまうからです。

正しさを放棄する代わりに、無執着になればいいのです。正しかろうとそうでなかろうと、そこに拘らないということ。

それが無執着ということですね。無執着は無防備であって、放棄は防衛だと理解すればいいのですね。

自我だけが目的を持つ

少し前のブログの記事で、目的を作れば未来が出来上がり、未来があれば時間が生み出されるということを書きました。

この世界で目的を作るのは自我だけです。生そのものも目的なんぞ持ってはいませんし、他のどんな生物にしても目的などありはしないのです。

いやいや、生物は種の保存という大切な目的を持っていると捉えることもできますね。防衛本能というものがありますが、それはその個体自体を守ろうとしているようにみえます。

けれども、個体を生き延びるように守ることで、その結果として種を保存することを可能にしているのです。

オスは出来る限り広範に種を撒き散らそうとし、メスはその中から一番生命力を持った種を一つ見つけようとするのです。

そうした本能のすべてが種の保存のためにできているようにしか見えないのですが、それは自我がそのように勝手に解釈しているのです。

繰り返しますが、どんな生物であれ目的など持ってはいません。それがこの自然界で起きている真実です。

自我だけが目的を絶対的に必要としている不自然な存在だと言わざるを得ません。この不自然さをしっかりと見続けることですね。

この生のどこにもどんな目的もないし、だから未来なども実在しない。その結果時間もただの幻想だと理解することです。

結果は自動的にやってくる

子供の頃に、何らかの理由があって自分は取るに足りない人間だと思い込んでしまったら、そのままで生きていくのは至難の技です。

自分のままでは愛されるに値しない人間だと信じてしまえば、何とかしてどんな努力をしてでも、生きてる価値のある人間になろうとするはずです。

その必死さが無防備で正直な自分を抑えつけて、理想とする自分に向かって頑張るわけですね。

けれどもそれはAがBになろうとする不可能なチャレンジであるばかりか、それによってありのままの自分が痛めつけられてしまうのです。

その結果は当然のこととして、抑えつけられていた自分が反撃に転じることになるのです。理想とする社会的な自分から突如として反社会的な自分になってしまうのです。

その時に本人の驚きと自己嫌悪は相当なものになるでしょうね。この一連の流れをコントロールして、別の人生を生きることはできません。

過去の自分の言動を後悔しつづけても、そこからは何も始まらないのです。ここで気づく必要があることがあります。

それは、ある原因が起きて、その後はすべてほぼ自動的に結果が起こりつづけたということ。それを防ぐ手立てはなかったのです。

癒していくということは、そうしたことに深い理解ができるようになることです。悔やむことの代わりに過去の自分を抱きしめてあげること。

結果として起きたことはすべて必然であって、それを変えることはできなかったという事実に早く気づけばいいのですね。

理由なくやってくるもの

それほど多くはないのですが、時々何ということもないのにふといい人生だなと感じることがあります。

何か特別いいことがあったとか、そんな分かりやすい理由など一つもないのに、ただ何となくじんわりとふわっとした感覚のようなものが来るのです。

思い返したら、朝から何かと邪魔されたなあとか、色々不都合なことにも遭遇してはいるのですが、そんなことも気にならない瞬間。

理由なくやってくるものって本当にありがたいのです。ところが残念なこともあって、それは自我の自分にはコントロールできない点です。

分かりやすく理由があれば、◯◯のおかげで今日はハッピーだと言って喜べるし、それを明示的に起こすように努力すればいいわけですね。

けれども、理由なくやってくるものは、いくらそれを欲したところでそれを呼ぶ具体的な方法などないのです。

ただ間接的な方法だったら一つだけあるかもしれません。それは、人生物語から距離を取るように練習することです。

距離ができればそれを見る立場になれるのです。人生を生きる側から見る側になることで、人は優しくもなれるのです。

悪い人生を良い人生に変えるということではなく、どんな人生であろうとそれを優しい目で観ている自分ができてくるという感じです。

それがうまくできている瞬間は、どんな理由もなくふとあの優しい感覚で人生を見ることができるのでしょうね。

コミュショーって?

「コミュショー」という言葉があることを最近知ったのですが、みなさんはご存知ですか?

どうやら「コミュ障」のこと、つまりは「コミュニケーション障害」の略語らしいですね。発音だけ聞くと、何のことだかさっぱり分かりませんでした。

専門用語ではないようですが、他人との普通のコミュニケーションに何らかの障害を持っているか、あるいは感じているということだと思うのです。

そう言われたら私自身もややそんな傾向を持っている自覚があります。どうでもいい雑談とかが苦手だし、興味のない話題には入っていけません。

単なる我がままという面もあるのですが、ただどうしても相手との空気が悪くならないように会話を繋ぐと言ったことが、全くもって苦手です。

だからといって生活の中で不都合に感じないでいられるのは、それを何とかしようとは思わなくなったからなのです。

気まずい空気になったとしても、それをそのまま感じているようにしたり、沈黙することがなんとなく悪いことだという感覚をやめたのです。

居心地の悪さを何かで誤魔化そうとすれば、いつまで経ってもそれと戦わねばならなくなるからです。

「コミュ障」気味であろうと、そんなことを気にする必要はないということです。それよりも相手の立場をおもんばかることができなくなることの方が問題は大きいです。

交通マナーの悪い人が最近急増していると感じるのは私だけでしょうか?そんな人々を見るにつけ、この人たちの方がきっとある種の「コミュ障」に陥っているのではないかと疑ってしまいますね。

隠された相方に気づく

右足と左足が交互にバランスよく協調し合うことで、スムーズに歩くことができるわけで、片方の足を怪我していたらとても歩きづらいですね。

私たちの内面にもこれと似たようなことが言えるのです。たとえば、今あなたが非常にテンションが高い状態でいるなら、それと同程度にテンションが低い部分が隠れているということ。

なぜなら、テンションが高い自分はテンションが低い自分を踏み台にして表舞台に出てきているだけだからです。

つまり今のあなたの状態、表面化しているあなたの奥には、その真反対の状態のあなたが隠されているということです。

今あなたがハッピーであるなら、必ずその反対のあなたが奥にいるということ。ところが、あなたはそのことに気づかないのです。

気付きたくもないのが人情ですが、気づかずに過ごせばいつかは下克上がやってきて、表と裏がひっくり返されてしまうのです。

この単純な仕組みを理解して、対極にいる自分を常に忘れずにいることができれば、マインドの分裂は自然と小さくなっていくはずです。

そして最終的には両極が互いに溶け合い、中道を生きることができるようになるのですね。

私がいるから苦しむ

すべての人の苦しみには共通の思い込みがあるのです。それは、「自分がいる」というもの。

自分がいるから苦しんでいるのです。そこから飛躍して、「私は苦しい」となるのです。それは正にでっち上げなのです。

その結果、苦しんでいる自分がいるということになるわけです。それが継続してしまうと、今度はその苦しみを自分と同化してしまうのです。

そうなると、苦しんでいることで私の存在があるような感覚になり、苦しみから解放されたいと思う反面、そうなったら自分が消えてしまう恐怖がやってくるのです。

だからとても厄介なことになってしまうのですね。ところが真実は、ただそこに苦しみがあるだけなのです。

それを見抜くことができたら、苦しみと私の両方が共に消えていってしまうはずです。

私が消えたときに後に残るのは、単に物理的な痛みに過ぎません。痛みは私なしでも存在できるからですね。

過去や未来に目を向ければ、そこには必ず私がいるのです。だからどんな苦しみも過去と未来からやってくるのです。

もしもあなたが今この瞬間にいられたら、私と苦しみは仲良くその存在はなくなってしまうのですね。

誰もが全体の一部

ある番組を観ていたら、女優さんがインタビューに答えて、時々ふとやってくる悲しみや孤独が何に由来するのか分からないけれど…、のような話しをしていました。

その人の人生の初期の頃を詳細に追っていくことができたら、生後に体験した惨めさや不安や孤独の根っこを見つけることができるかもしれません。

けれども、そこをどれほど掘り起こしたとしても、その向こうにはもっともっと残酷で悩ましい誰にも共通する事実があるのです。

それは、すべての人に例外なく気付いて欲しいと思うことなのですが、自我として生きることの必然となる不安や孤独についてです。

自我というのはすべてから分離した個人として生きているという思考がベースにあるのです。

それはたとえて言えば、根もとから引っこ抜かれた植物のようなもの。大地と繋がっていたはずなのに、宙ぶらりんになってしまった木と同じなのです。

だから大地が恋しくて恋してくて仕方がないのです。私たちに共通の宙ぶらりんな感覚、それが不安感や孤独感なのですね。

けれども幸いなことに、私たちが全体から分離したことなど一度もありません。分離したという思考(妄想)に過ぎないのです。

どう転んだところで、誰もが全体性の一部でしかないのですから。それを一瞬でも感じることができたら、すぐに静かな恍惚感がやってくるはずです。

文句を言いたい自分を炙り出す

思い返してみると、自分の内側に記憶のある限りずっと変わらずにあるものがあります。それは何かと文句を言っている部分。

これまで人生が好きだと思ったことがなかったなあと。中途半端に絶望している何かがあるようで。

でも完全に絶望しているわけではないので、常に文句を言っているのです。気分が晴れない、気持ちよくない、どこかが痛い、つまらない等々。

そいつが私のマインドの中枢を占拠しているようです。勿論短い時間、理由も無く晴れやかな素晴らしい気持ちになるときはあるのですが、またすぐに戻るのです。

せっかくの人生、もうそれほど長く残っているわけではないので、違う生き方をしたらどうなんだろうと思うのです。

で、自分を改善することはできないので、代わりにその「文句言い」の奴を常に見守る練習をしてみようと思います。

大抵はそいつに乗っ取られてしまうことが多いのですが、乗っ取られる前だけでなく、常にそれを見ててあげようと思うのです。

彼が文句を言ってどんな利点があるか、そこに気付いてあげられたらいいかもしれません。

それができたら、私のマインド全体としてはもう文句を言う必要がなくなって、清々しい毎日になるように思います。実践あるのみですね。