私たちの誰もが、2歳前後のころに自分を身体と同一視するという途方もない思い込みをするのです。もっと正確には、親からの洗脳によってこの身体の近くに自分がいるという思考を作るのです。
幼いころの思い込みというのは、他の何よりも固いため、心の底から信じ込んでしまい、私たちは自分が身体であるということを真実であるとしてしまうのです。
けれども、多くのクライアントさんとお話ししていて、気づいたことがあります。それは、「私は身体だ」という人がほとんどいないということです。
その代わりに、「私の身体」とか、「私は身体を持っている」、あるいは「私は身体の中にいる」などのように表現される方がほとんどなのです。
つまりは、自分を身体そのものだとは感じていないということです。実際、身体はいつも自分の身近にあるのですが、それでもそれ自体ではないということに気づいているということです。
こうしたことが、日本人の標準なのかどうかは定かではありません。たまたま私のところにセッションを目的でいらっしゃる方々がそのような感覚をお持ちなのかどうか、本当に分かりません。
それでも、とにかく自分を身体そのものだとは感じていないのですから、それでは自分は何なのかということを探求するチャンスがあるということです。
身体でなければ、一般的には意識と表現するのが最もふつうかもしれません。肉体だけが物質として知覚の対象となり得るので、意識がどこにあるのかを見出すことは不可能です。
科学が進歩した現代でも、意識の正体を見つけることはできていません。脳科学者たちは、こぞって意識を解明しようと頑張っていますが、それは土台不可能というものです。
なぜなら、ここでいう意識とは思考とは異なる純粋な気づきのことであって、それを思考(知覚)をベースとした科学で理解することなどできないからです。科学とは、思考の範囲内での話しだからです。
そして気づくはずです。あなたは、自分という意識をこの世界のどこにも見つけることができないということを。それもそのはず、この世界のすべてがあなたという意識の元に現象化されたものだからです。